四念処観と七覚支による解脱システム
平成27年3月20日阿山恭久記す (平成30年5月21日 改訂X)
四念処観は解脱へ向かう一乗道といわれています。四念処観だけ実践していれば、解脱の終着点ニルバーナに至るというのです。
四念処観は。徳を高める基本の脳と心の動かし方であるからです。
四念処観は瞑想ではありません。日常生活での心の持ち方を説いています。瞑想や勤行、梵行など、その時だけの修行ではなく、一日中、24時間ずっと、心に留めて生活します。すると、ひとりでに解脱に向かうのです。すごいですね。
まえがき
このページで解説する四念処観は、お釈迦様の時代に実践されていた四念処観です。
アビダルマや大乗仏教では、四念処観を瞑想法であるとしていませんか。
一心にこの瞑想に取り組み、様々に工夫してみても、解脱に向かう仕組みが見えてこなければ、瞑想から解脱に向かうことは殆どありません。
お釈迦様の解脱法は、その道を実践すれば解脱するに違いないと確信が持てるものなのです。
四念処観も、誰にでも分かり、だれにでも実践できる易しい道であるはずです。
このページではアビダルマや大乗仏教とは違う視点から四念処観を捉えています。 日常生活のなかで解脱に向かう実践方法、すなわち、徳を高める心の動かし方を説いていると見ているのです。
このページから一乗道である四念処観を読み取って頂きたいと思います。
七覚支では四念処観が成就した証拠を覚(し)ります参照テーマ
「仏陀の智慧と 自然の神力」
当ホームページ「仏陀の智慧と 自然の神力」参照「四諦の法門」「縁起の法」「愛(タンハー)」
「仏陀に学ぶ脳と心 第五巻」参照「阿含経のテキストによる四念処観」
「仏陀に学ぶ脳と心 第四巻第七章 第五巻第一部第八章」参照。
四念処観とは
四とは何か。脳と心が欲と愛(タンハー)を成就しようと動いている、この力を生じている四つの脳の場所です。すなわち 身・受・心・法です。それぞれの場所では、欲界・色界・無色界そして滅界の心の動きを生じます。(「仏陀に学ぶ脳と心」参照)
念処とは、念すなわち心が為そうと目指している方向とエネルギーを生じている、その脳の場所を示しています。
観とは、念処の動きを観察し、動きが善に変わるように静かに伝え、変わってゆくことを知ります。どの様に変わるのでしょうか。
脳と心に働きかける。
身の段階では、凡夫の心の念は欲念によって恚念 ・害念が生じています。欲念を無欲念になるように働きかけ、無欲念になれば無恚念 ・無害念 になります。無恚念 ・無害念 になれば、苦が寂滅します。
「身」の段階の四念処観は、「欲念」を無くすこと、すなわち「我(が)」をなくすことにつきます。
(欲念・恚念 ・害念、無欲念・無恚念 ・無害念については、本ホームページ・涅槃を得るには のなかで解説しています。)欲とは、動物の進化の過程で脳に蓄積された「動物の行動原理」です。自分を偉く見せる為に、自分は偉い、正しいと自己主張し、人を責め、批判し、怒り、威張り、嫉妬します。
愛(タンハー)とは、過去世、主として前世で成し遂げられなかった思いを、今生に持ち越していて、どうしても成し遂げようとしています。
大乗仏教に伝わる四念処観のテキスト
まず大乗仏教に伝わる四念処観のテキストを参照して解説してみようと思います。
大乗仏教では四念処観を次のように伝えています。 括弧内は阿含経のテキストです。
① 身は不浄なり (身に身觀念處をなし)
② 受は苦なり (受に受觀念處をなし)
③ 心は無常なり (心に心觀念處をなし)
④ 法は無我なり(法に法觀念處をなし)この大乗仏教の四念処観についての記述は誠に見事にその道を示していると思います。けれどもこれを理解するときに、それぞれの言葉、身・受・心・法と不浄・苦・無常・無我などを正しく捉えて、四念処観を難しくしてしまわないようにしたいものです。この言葉を阿含経典を参照して読み解くと、日常的に実践すべき、易しい当たり前の修行法が見えてきます。
身は不浄なり
まず最初に「身は不浄なり」に相当する部分を説いた阿含経のテキストを参照しておきます。
「内身に内身觀念處をなし、 精勤方便し、 正智正念にして 世間の貪憂を調伏す」
とあります。
内身に内身觀念處をなし
さて阿含経のテキストの先頭部分「内身に内身觀念處をなし」から考察してゆきましょう。
身は不浄とは
「身は不浄なり」という。身は不浄とは何か。
人間の身体は不浄であると瞑想せよ、というのでしょうか。ここが仏陀の修行法を分からなくしてしまう第一関門です。
身とは何か。身は身体のことを指しているのではないのです。
身を動かしている脳のプログラムを示しています。この脳のプログラムは人間が原生動物であった時から魚になり爬虫類になり哺乳類、猿を経て進化してきた、この過程の中で培われた条件反射とも言うべき「動物の欲の行動原理」です。このプログラムはまず「欲念」と名づけられています。智慧の働く余地が無く動いてしまう「無明」と呼ばれる動きです。「自分は偉い」とつぶやき、「自分は正しい」と主張し、偉く見せようとし、自分の優位を示そうとします。「身は不浄なり」は「身」がいつも不浄であるというのではないのです。「身」の中にある不浄な動きを観察せよというのです。
身の中の不浄な動き
欲念は無条件に動いています。
欲念を成就するのが邪魔されると、いかりの心「恚念」を生じて邪魔するものを排除しようとします。
また、欲念が動いていると、欲念を成就するために、周囲のエネルギー削ろうと「害念」が生じてしまいます。
この自己中心の脳と心の動き「欲念・恚念・害念」を「身は不浄なり」といいます。
この脳の動きを知って自己中心の動きをしないようにせよというのです。
仏陀の解脱法は苦や悩みを消滅させることにあります。「恚念」「害念」から無量の悪い心癖が生じ、憂悲脳苦を生じてゆく、この「不浄」の心の動きを観察します。
身の不浄を滅するには
まず、脳と心が「欲念・恚念・害念」によって動いていることを知る所から始まります。ここに不浄の心の動きがあるのを観察したら、この動きが拡大しないようにし、消滅するようにする、これが解脱へ向かう道の第一歩です。「仏陀に学ぶ脳と心 第一巻」でこのことを分析しています。
次に、「身は不浄なり」は、その心の動きが不浄であると認めていなければ、すなわち「戒(善くない心の動きと認めてこれを為さないように心を向けている)」に相当することを認識していなければ、気がつくことはありません。
四念処観はまず、心の不浄の動きを発見し認めることから始まります。
「身は不浄なり」を発見したらすぐに対応しこれを消滅させるように心を向けます。四念処観の「念」の字は、このように心を向けて心を変え、穏やかで安らかになる脳の変化を観察することを表しています。
この制御はどのように為すのか。「欲心」すなわち、自分を偉い、正しいと主張するいわゆる「我(が)をなくすことによって為します。
内身観念處と外身観念處
阿含経に説かれた四念処観には、ここで取り上げた、「 内身に内身觀念處をなし」のテキストと並んで、「外身に外身觀念處をなし」「 内外身に内外身觀念處をなし」の三つの項目が説かれています。これについて論じておきましょう。
まず、「外身」は表面意識に表れて身を動かしている脳のプログラムです。「恚念・害念」の心の動きに相当し、外身觀念處ではこれを観察するように心を向けます。
それでは、内身とは何であったか。表面意識すなわち「外身」に「恚念・害念」を生じさせるもとになる「欲念」、動物の欲を実現しようとする強い衝動と執着「無明」です。身は不浄なりを無くすには、この「内身」と「外身」の両方が制御されなければなりません。私達がなかなか「恚念・害念」を制御できないのは「内身」のエネルギー「欲念」に気がついていないからです。
「欲念・恚念・害念」については、本ホームページ「涅槃を得るには」の中で詳説しております。ご参照下さい。
四念処観では、「内身」と「外身」の他に此の二つの動きを結ぶ脳の働きをとりあげ、「内外身」と名づけています。
「忍を観察する」と「賢聖の覚見跡」
「身に身觀念處をなし」は、身に表れる「身は不浄なり」を為そうと動く脳の場所を観察することです。
ところで、身觀念處をなすと「忍」を観察するのだという。
「忍」とは何か。本ホームページ内の「解脱に向かう」のページには、修行の第一階梯である「信行」が説かれています。「信行」では、「六處に於いて忍を観察する」というのです。 「忍」が「身は不浄なり」を観察すると生じるのです。 その心の動きが自分にとって「戒」であると認めている、すなわち為してはならない不善の心の動きであると知ると、ストレス感を生じるのです。このストレス感、すなわち「忍」が生じることによって、不浄の心が動いていると知ります。
このとき「忍」とともに観察された不浄な部分が改善すべき心の動きです。
また同じく本ホームページ内の「四念処観の基礎」のページで紹介されている、雑阿含経 諸根修経には、「賢聖の覚見跡」が説かれています。賢聖となった先達は、「自分の心の状態を恥ずかしく思う」ことによって解脱を成し遂げてきたといいます。
「忍を観察したら」まさにこの心を恥ずかしく思うのです。これが「賢聖の覚見跡」です。
このように「身觀念處」を為したら「忍を観察」し、これを恥ずかしく思って「身の不浄」を寂滅に向かいます。どのようにして寂滅に向かうのか。精勤方便と正智正念によって向かいます。
精勤方便し(四正断法)
阿含経の次のフレーズ「精勤方便し」は何を表しているのでしょうか。
まず常識的に読むと、精勤は一生懸命に為すことであり、方便は様々に工夫を重ねること、となります。しかし阿含経に出てくる精勤方便しは少しニュアンスが違います。 精勤方便しは、三十七菩提分法の四正断法を実践することを表しています。四正断法を別の三十七菩提分法の項目としてみると精進根を実践することであるとも言えます。四正断法・精進根は
① 巳(すで)に生ぜし悪不善の法を断ぜしめ、
② 未だ生ぜざる悪不善の法を起こさず、
③ 未だ生ぜざる善法は起こらしめ、
④ 巳(すで)に生ぜし善法は住して忘れず、この四つの項目を実践することです。 すなわち 悪不善の法(善くない心の動き)「恚念・害念」を断じ、起こさず、 善法(善い心の動き)「無恚念・無害念」を起こして住し忘れないようにします。すなわち悪い心の動きから、善い心の動きに切り替えることが求められています。
精進は、もちろん善い心になるように努力するのですが、悪い心から善い心に出来るだけ早く切り替えることを求めています。すなわち「擇法(ちゃくほう)」を為せというのです。
「擇法(ちゃくほう)はどのように為すのか。「恚念・害念」は「欲念」すなわち自分を偉い、正しいと主張する「我(が)」によって生じていると知り「欲念」すなわち「我(が)」を滅することによって「無恚念・無害念」にします。
「擇法」とは、不善の心「恚念・害念」が動き回っている状態から、穏やかで安らかな脳の動き「無恚念・無害念」に切り替えて善の心を生じます。どのように為すのか。欲念すなわち我(が)を滅するのです。
擇法は、我(が)を滅することによって為すのです。
(四正断法・精進根については「仏陀に学脳と心 第四巻付記第一節」に詳説しています。安那般那念法については第五巻をご参照下さい。)
正智正念にして
正智とは、脳と心が欲念すなわち我(が)によって動いていると知ることです。
正念とは、無欲念を成就し無恚念・無害念に向かいます。すなわち精進・擇法をなした結果、心は無欲念・無恚念・無害念になり、穏やかで安らかな寂静の脳を成就し、これを観察し、知ります。
正念正智には実践するに当たってもう一つ大切な心の使い方があります。正念によって心を動かそうとするときに、「自然の神力(じねんのじんりき)」を使うのです。「自然の神力(じねんのじんりき)」は人間が生まれながらに備えている進歩向上する能力です。潜在意識に悪い心癖がなくなるように静かに伝えておくと、脳と心が 「自然の神力」を動かしてひとりでに成就します。「自然の神力」はお釈迦様が私達に伝えて下さった最勝の智慧です。
(自然の神力(じねんんのじんりき)については、当ホームページ「仏陀の智慧と自然の神力」の項目と、「聖者への梯 第五章」で解説しています。)
(正念正智については「仏陀に学脳と心 第四巻第五章」に詳説しています。)
世間の貪憂を調伏す
世間の貪憂を調伏すは、擇法をなし、すなわち欲念から生じる我(が)を滅すれば、ひとりでに世間からやって来る出来事に心が反応しなくなり、散乱して貪憂を生じることがなくなります。
心が苦や悩みを育ててしまうことがなくなるのです。
常住座臥 常に脳と心を観察せよ
「身を観じて身の如く」を表す次のテキストがあります。比丘は行けば則ち行くを知り、住せば則ち住するを知り、
坐すれば則ち坐するを知り、臥すれば則ち臥するを知り、
眠れば則ち眠むるを知り、寤めれば則ち寤めるを知り、
眠り寤めれば則ち眠り寤むるを知る。
是の如く比丘は内身を觀じて身の如く外身を觀じて身の如く、念を立して身に在り、知有り見有り明有り達有り。是を比丘、身を觀ずること身の如しと謂う。すなわち一日中どんな時でも、「身の不浄」すなわち心に悪い動きが生じていないか観察したままでいなさい、と説いています。
「身は不浄なり」まとめ
身は不浄なりは、一日中寝ても覚めても自分の脳と心に欲念・恚念・害念など、すなわち不浄の動きが生じていないか観察し、不浄の心を見つけたらこれを寂滅するために、擇法を為し、自然の神力を動かします。
「身は不浄なり」が無くなれば須陀洹です。
受は苦なり
「受は苦なり」は 「身は不浄なり」が 寂滅すると観察できるようになります。
受とは何か。
世間からやってきた出来事「色」を、「眼」が捉えて脳内に入った情報を「色陰」といいます。
一方 私達は、過去世で満たすことが出来なかった要求「有結」を持っていて、この有結をどうしても満たしたいとの要求、愛(タンハー)が生じてきます。愛(タンハー)に関わりのある脳内の記憶「識」を探し回り、「眼」から脳に入ってきた「色陰」と、探し回った過去の記憶「識」を照合して一致すると、この情報を「色受陰」と捉えます。このことは「三事和合」と名づけられています。
愛(タンハー)を実現しようと、色受陰は五蘊(色受想行識)となって拡大展開し、ここから苦を生じる受が生じてゆきます。愛(タンハー)は受を生じ、心の中で転変して苦となってしまうのです。
「受は苦なり」は愛(タンハー)による表面意識の動きを示しています。
「受は苦なり」がなくなることは、表面意識で愛(タンハー)が動かなくなったことを示し、斯陀含(しだごん)の成就を示しています。
受は苦なりの実践
心が苦を生じる様は、「四諦の法門」「縁起の法」で説かれています。
この受が苦に育ってゆく心の動きが観察されることを「受は苦なり」と表しています。
「受は苦なり」は、受が全て苦であると瞑想せよと言うのではありません。苦となってしまう受が心の中に存在していないか観察せよ、というのです。「受は苦なり」は、愛(タンハー)によって表面意識が動き回って苦を育ててしまう心の動きです。愛(タンハー)が動いて受が苦に展開されてゆく心の動きをみつけたら、愛(タンハー)から離れて、穏やかで楽しく喜びがある心に切り替える、これが四念処観の第二段階です。
愛(タンハー)によって動いている「受は苦なり」の心の動きがなくなるようにします。
ここでも、この心の動きを「戒」ととらえていなければ、「受は苦なり」が生じていても「忍」が観察されることはありません。
「忍」を観察したら、「身は不浄なり」と同じ様に、擇法を為し自然の神力を動かして、苦のない穏やかで楽しい心に切り替えます。苦を生じる心の動きから離れるのです。「受は苦なり」に対する擇法は「身は不浄なり」に対する擇法よりもう一段階穏やかな脳を求めています。「受は苦なり」が動かなくなると、愛(タンハー)によって生じる苦である五蘊が表面意識で動かなくなります。
「外受観念處」と「内受観念處」
「外受を観じて外受の如く」は、表面意識で愛(タンハー)によって動いている五蘊の動きを観察し寂滅します。
「内受を観じて内受の如く」は、心の奥深くにある愛(タンハー)への執着を観察し滅して、表面意識に愛(タンハー)による苦の五蘊が生じないようにします。
心は無常なり
前世からのストレス感
「受は苦なり」が寂滅すると「心は無常なり」を観察することができるようになります。
「心は無常なり」も、「心は無常なり」と瞑想せよというのではないのです。
潜在意識には、前世からの満たされない思いの記憶である、「有結」と、これから生じる愛(タンハー)が存在しています。愛(タンハー)が表面意識で動かなくなっていても、愛(タンハー)のエネルギーは、心の中に前世からのストレス感である「憂苦・悔恨・埋没・障礙」を生じています。(本ホームページ 「前世のストレス感」の項 参照)
「心は無常なり」は、この愛(タンハー)によって心の奥深くに生じて表面意識に漏れてくる、無常であるストレス感「憂苦・悔恨・埋没・障礙」を観察し知ります。
このストレス感が無常であると同時に、愛(タンハー)そのものも無常であることを観察し知ります。
忍を観察する
ここでもこのストレス感を生じないように心を向けることを「戒」の対象であると認めていなければ、ストレス感を観察しても「忍」を生じることはありません。 ここで観察される「忍」は、世間から苦の種がやって来なくても生じてきます。
愛(タンハー)を滅する
愛(タンハー)によるストレス感に「忍」を観察したら、「身は不浄なり」と同じ様に「忍」に対処します。愛(タンハー)に執着して実現しようと動く掉慢無明から離れて、元気な心を取り戻すのです。同時に前世からの愛(タンハー)のエネルギーも寂滅に向かうよう、静かに自然の神力を動かします。「憂苦・悔恨・埋没・障礙」に対しても自然の神力は効果があります。
この前世からのストレス感のエネルギーはかなり強いものなので 、
「心は無常なり」に対処する前半では「無常観」と「自然の神力」を使い、後半では「忍」を感じたら穏やかな心に切り替える擇法を為して寂滅に向かいます。
ここでの擇法は掉慢無明から離れることによって為します。前世からのストレス感については、阿山恭久著「仏陀に学ぶ脳と心 第二巻第四章第二節」に詳述しています。
「外心観念處」と「内心観念處」
「外心を観じて外心の如く」は、潜在意識にある有結と愛(タンハー)のエネルギーがストレス感となって表面意識に漏れてきているのを観察し、寂滅します。
「内心を観じて内心の如く」は、心の奥深くにある愛(タンハー)そのものを滅盡し、また愛(タンハー)に執着する掉慢無明から離れます。
法は無我なり
脳の動きに「我(が)」がない
「法は無我なり」は 「心は無常なり」が寂滅すると観察できるようになります。
「法は無我なり」は 「法は無我なり」と瞑想せよと言うのではなく、「法は無我なり」となっていない心の動きを観察したら、これに対処します。「法は無我なり」とは何か。
「法」すなわち脳の動きに、「我(が)」すなわち「自己主張」が存在しないのです。どのようになれば良いのか。阿羅漢の境涯が近づくと、「我(が)」がほとんどなくなって、神仏や周囲の霊魂の働き、世間の状態、未来の情報などが五感を経由しないで脳に入ってくるようになります。この脳に入ってきた情報は通常表面意識に浮かび上がってきませんが、もし情報が自分の主張と合わないと、脳の奥底で反発し、苦のエネルギーが生じてしまいます。
法は無我なりの実践
l法は無我なり」はこの苦を生じるエネルギー「我(が)」が、心の奥深くにも一切存在していないことが求められています。
阿羅漢に向かう人は、常に心の奥にも「我(が)」すなわち自己主張が存在していないか、氣をつけていなければなりません。
阿羅漢は、心の奥底に小さな「我(が)」があって、表面意識に表れない世の中の情報に反発すると、身体が壊れてしまいそうになります。 「我(が)」がなくなって、どんなことにも反発することがなく、心静かに存在していなければなりません。もう一つの対処法は、無意識層に入ってくる世の中の情報を表面意識に引き出せるようになることです。
阿羅漢は心静かであっても、積極的で抜群の行動力を備えています。
もし、心静かな阿羅漢を克害すると、克害した人は「五無間罪」に堕ちると説かれています。阿羅漢を大切にし行動を邪魔しない心遣いが求められているのです。
「法は無我なり」では、無我であることが善法ですから、前の三つの項目とは受け止め方が違っています。無我であることが求められています。
四念處観を為してゆく「擇法」には脳の寂滅のレベルに対応して四つの段階があります。安那般那念法の「入息を覚知する」四つの段階に相当します。
(このことは「仏陀に学ぶ脳と心 第五巻 第二部」に紹介されています。ご参照下さt。)
「外法観念處」と「内法観念處」
「外法を観じて外法の如く」は、見えている我(が)を観察し寂滅します。
「内法を観じて内法の如く」は、心の奥深くに僅かにある我(が)を観察し寂滅します。
四念処観と七覚支
四念処観は、
① 脳と心の動きに「忍」が生じることを観察し知ったら、
② 「忍」の心が寂滅する心の動きに切り替え(擇法を為し)、
③ 心に善法の動きを確立します。
④ これによって穏やかで安らかな寂静の脳と心を生じます。七覚支は脳の中に、それぞれの心の動かし方が確立していることを知ることです。
上記の四念処観の各項目は、
①は 念覚支、
②は 擇法覚支、
③は 精進覚支、
④は 喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支、 に相当しています。① 念覚支は脳と心が「無欲念・無恚念・無害念」になっていることを覚(し)ります。
② 擇法覚支は「忍」を観察したらすぐに寂滅した心に切り替える、すなわち「我(が)」から離れる、このことが確立していると覚(し)ります。
③ 精進覚支は、「我(が)」を捨て離れた結果、脳と心に善法が増大してゆくことを覚(し)ります。
④ の四つの項目は四禅などの禅定に入れることを覚(し)ります。
(禅定については、阿山恭久著「仏陀に学ぶ脳と心 第四巻第九章」に詳説しています。)④のうち、
喜覚支では「身は不浄なり」が寂滅すると生ずる禅定(初禅)を覚(し)り、
軽安覚支では「受は苦なり」が寂滅すると生ずる禅定(第二禅)を覚(し)り、
定覚支では「心は無常なり」が寂滅すると生ずる禅定(第三禅)を覚(し)り、
捨覚支では「法は無我なり」を成し遂げて、我(われ)が寂滅していること(第四禅)を覚(し)ります。
このように四念処観の完成が七覚支の成就に対応しています。
まとめ
四念処観が解脱法として機能するには、自分にあてはまる「戒」を発見し、この心の動きが善くないことを認めていなければなりません。四念処観はここから出発します。
信戒施を実践する、これが戒を見つける道です。
このページでは、三十七菩提分法による解脱システムを分析し、理解して頂きました。それぞれの項目についての脳と心の領域と、心の使い方は、五巻の「仏陀に学脳と心」に記述してきました。ご参照下さい。
ここまで阿含経を学んでこられた皆さんは、このように一乗道である四念処観を実践して解脱に至ることができると思います。ただ、四念処観を為す前に自分自身の「戒」をどの様に発見し自分の「戒」と認めるか、これが問題です。ここに脳と心に「梵行」を成就してゆくことが必要な所以があります。
四念処観が示す四つの項目、身・受・心・法とは、脳と心のどの部分の動きであるのか、さらに、不浄観とは、 苦はどのように生じるか、 無常とは、 そして本当の無我とはどのような世界か、これらについて正しく余すことなく理解することから始めます。
昔、お釈迦様の教団では「不浄観」を中心に修行が為されていました。この時、修行者達か身の不浄に厭気がさして 集団自殺してしまいます。このあとお釈迦様が指導されたのは、「微細住観によって悪不善の法(悪い心癖)を寂滅させる」というものです。 四念処観を中心とした三十七菩提分法はこの時のご指導から体系化されてゆきます。
(このことは「仏陀に学ぶ脳と心 第五巻 第二部」に紹介されています。)
ところで、私はチーズが大好きです。ラーメンにもチーズの大きな塊を入れて食べます。「チーズラーメン」ですね。私はパスタも大好きなので前世はイタリア人だったかも知れません。さて、昔はチーズは大きな塊で売っていました。チーズが悪い心癖の塊だと思うとこれを食べ尽くすのは少し大変でした。ところが最近はチーズもカットして売られている。ひとくちで口に入るカットチーズになっているのです。
昔は三十七菩提分法によって解脱に向かう道はイメージがつかめず、とても難しかった。でもこのページによれば四念処観による解脱は、小さな心の動きに気がついて、一つ一つ「擇法」によって切り替えて、なくしてゆけば良い。カットチーズを食すような解脱法です。解脱への実践を為す道にも新しい時代がやってきているのを感じています。
「微細住観によって悪不善の法を寂滅させる」、すなわち心の細かい動きを観察し「忍」が見えたら擇法をなして寂滅します。これなら大きな悪い心癖があっても少しづつとらえて着実に消してゆくことができます。日常生活の中で心をこのように向けていれば、ひとりでに解脱に向かい、「忍」が起きる頻度を見て解脱の実感を得ることが出来ます。
参考 四禅について
中阿含経 説経に説かれた四禅についてのテキストを読み解いておきましょう。四禅の心は喜覚支、軽安覚支、定覚支に相当します。四禅によって七覚支の成就を知り、聖者に到達したことを知ることが出来ます。四禅は瞑想法ではありません。静かに観察すると心の状態が見えてくるのです。
喜 初禅(喜覚支)
欲を離れ悪不善の法を離れ、覚有り観有り、離より生ずる喜と楽と有り。
動物の欲の執着「欲念」すなわち「我(が)」を離れ、悪い心癖「恚念・害念」から離れて、 覚有り観有り、「欲念・ 恚念・害念」から離れた「離」から生じる喜と楽によって心が満たされています。
(離れて) 「離れて」というのは寂滅したのではなく離れて生じなくなっているのです。
(覚有り観有り) 愛(タンハー)によって表面意識に喜憂を生じる五蘊が動くとすぐに気がつき、この動きを観察します。
止 二禅(軽安覚支)
覚観巳に息み、内靖一心にして覚無く観無く、定より生ずる喜と楽と有り。
「覚観巳に息み」、すなわち、愛(タンハー)によって表面意識に喜憂を生じる五蘊が動くことは已(すで)になくなっています。
心は清らかで寂静に満たされていて、愛(タンハー)から離れており、表面意識に喜憂の五蘊が動くのを感じることもなく、観察することもありません。
寂静の心「定」から生じる喜と楽によって心が満たされています。
楽 三禅(定覚支)
喜と欲を離れ、捨無求にして遊び、正念正智にして而も身に楽を覚ゆ、謂く聖者の説く所、聖者の捨す所の、念、楽住、空あり。
愛(タンハー)の成就によって生じる喜と、成就を求める欲を離れ、愛(タンハー)を捨離していて、愛(タンハー)による楽(ねが)いや求めるものがなく、自在に過ごしています。心の奥深くまで心を向け寂滅を知ろうと「正念正智」を為しているにもかかわらず、身には楽を覚えています。
いわゆる聖者が説く所、聖者が捨する所である、愛(タンハー)の寂滅と掉慢無明の捨離を念じていて、聖者の楽住と空が生じています。
定 四禅(定覚支)
楽滅し苦滅し喜憂は本巳に滅し、不苦不楽にして捨あり念有り清浄にして住す。
思いが成就しなかった苦の記憶と、思いが成就した楽の記憶が動くのを滅盡します。思いの成就・不成就にともなう喜憂の記憶は当初にすでに滅しています。
三界の行(ぎょう)の、全ての記憶の動きは不苦不楽になり、「我」に執着する掉慢無明の捨離に心を向けて、清浄に住しています。参考 四禅について 終わり
参考Ⅱ 四念処観と聖者の段階
四念処観には、身・受・心・法の四つの段階が説かれていました。身・受・心・法を一つづつ成就すると聖者の段階を登って行きます。ここにも、お釈迦様の解脱システムにふさわしい明解な形が見えてきます。
須陀洹に向かう「身は不浄なり」の寂滅
須陀洹になる条件は、身見・疑惑・戒取がなくなることです。
「身は不浄なり」を滅する修行は向須陀洹の段階から始まり、須陀洹の段階まで至ります。向須陀洹への修行は本ホームページ「解脱に向かう」に解説されている信行・法行の修行です。
信行はお釈迦様の解脱法に対する揺るぎない信の力によって解脱への実践を為します。 信行が始まれば、信が確立してゆき、さらに法行を為してお釈迦様の智慧を学べば、「疑惑」はなくなります。
「身は不浄なり」を寂滅する修行は、自己中心の心の動き「欲念・恚念・害念」を戒としてこれをなくすことです。ここでの中心となる作業は「欲念」を滅尽することです。「内身」にある「無明」すなわち自分を偉い、正しいと主張するいわゆる「我(が)」をなくします。「我(が)」をなくせば、身見を滅することができます。身見とは自己中心の心を生じるものの見方です。
次に、四念処観による念処と擇法によって戒を護る方法は、悪い心癖を押さえ込むのではなく、悪い心癖が生じる原因となる心の仕組みを除こうとしています。すなわち「動物の欲の無明」である欲念を消滅させます。擇法は欲念を消滅させることによって為すのです。この取り組みが、ただただ「恚念・害念」を無くそうと気張っている、「戒取」すなわち戒に対する執着をなくします。
このように「身は不浄なり」を寂滅する修行を実践すれば、身見・疑惑・戒取が寂滅し須陀洹へ到達します。
斯陀含に向かう「受は苦なり」の寂滅
須陀洹の次の段階、斯陀含では「欲貪と瞋恚が薄らぐ」ことが求められています。
欲貪と瞋恚は貪りと怒りではないのです。
「欲貪」は、愛(タンハー)が成就することを貪るエネルギーを示しており、害念を成就すべく五蘊を転変させます。
ここでの「瞋恚」は愛(タンハー)が成就しないと生じる「いかり」のエネルギーを表しており、「恚念」を成就すべく五蘊を転変させます。
「受は苦なり」を寂滅する修行に向かうと、表面意識で動く愛(タンハー)によって生じる五蘊の転変を消滅させ、「苦」を生じる心の動きが無くなります。すなわち欲貪と瞋恚が薄らぐことを示しています。どうして薄らぐだけであるのか。 潜在意識にある愛(タンハー)の動きが滅盡しないで残っておりこれによるストレス感を感じているからです。
阿那含に向かう「心は無常なり」の寂滅
「心は無常なり」を寂滅する修行を実践すると、「心は無常なり」で表される、潜在意識すなわち心の奥深くにある愛(タンハー)によるストレス感を滅盡します。
これによって表面意識だけでなく潜在意識で動いている「欲貪と瞋恚」も完全になくなります。
すなわち 五下分結が全てなくなって阿那含が成就します。 「心は無常なり」を寂滅する修行の実践は、向阿那含から始まって阿那含に向かいます。
阿羅漢に向かう「法は無我なり」
「法は無我なり」の実践は、「我」に執着する記憶を動かなくします。すなわち、掉慢無明が記憶を探して「我」を実現しようと動く脳と心の仕組みを捨離し、記憶のエネルギーを減らして、阿羅漢の寂滅した脳と心の境涯を作り出します。
参考Ⅱ 四念処観と聖者の段階 終わり
四念処観と七覚支による解脱システム 終わり
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