八正道による日常生活
(世俗の八正道と聖出世間の八正道)
雑阿含経 一二五二四 広説八聖道経より
平成26年8月5日 阿山恭久 記す(改訂G)
解脱に向う仏弟子は日常生活をどう過ごすべきか。これを示したのが八正道です。八正道はお釈迦様の教えに基づいて生活する上で最も大切な基本のあり方です。
お釈迦様は一日に麻の実一粒、麦の実一粒だけを食して過ごした六年間の荒行を終えて、村の娘スジャータから一杯のミルクの供養を受け菩提樹の木の下で瞑想に入られます。 瞑想から出られてまもなく五人の仲間と出会って初めての説法をされます。いわゆる初転法輪です。
このとき示された解脱に向う智慧と修行法は、三転十二行・四諦の法門(苦集滅道)です。(四諦の法については「仏陀に学脳と心 第三巻と第五巻に詳説しています。)
苦 ・集・滅・道の中で解脱に向かう道を示す「道」の実践法が八正道です。
八正道には、正見・正志・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つの項目があります。 日常生活の中で新しい悪業を積むことなく着実に解脱に向う基本の心構えです。
(タイトル以外の太字の部分は 国訳一切経印度撰述の部阿含の部 大東出版社 から引用しています)
世俗の八正道と聖出世間の八正道
雑阿含経広説八聖道経には、その人の心の境涯に応じて二種類の道が記述されています。
世俗の八聖道と、聖出世間の八聖道です。この二つは初心の修行者の八正道と聖弟子の八正道と見ることが出来ます。このふたつはどのように違うのか、これがこの経典のテーマです。
これからこの二つの八正道を比べて、八正道は何を目指しているかを知りたいと思います。と同時に、心の境涯が高くなるとどの様になるかを学びたいと思います。
雑阿含経広説八聖道経より
是の如く我聞きぬ。一時、佛、舍衞國の祇樹給孤獨園に住りたまへり。
爾の時世尊、諸の比丘に告げたまはく。上に説けるが如し。この様に聞きました。あるときお釈迦様は舍衞國祇樹給孤獨園に滞在しておられました。 そのときお釈迦様は諸々の修行者にお告げになりました。今まで説いてきたことですが、もう一度説きましょう。
正見 ー 正しいものの見方
まず、正見から。正見とは正しいものの見方です。
差別せば、何等をか正見と爲す。 謂ゆる正見に二種有り。
正見有り。是れは世俗、有漏有取にして、善趣に轉向す。
正見有り。 是れは聖出世間、無漏無取にして、正しく苦を盡くし苦邊に轉向す。どのようなものが正見でしょうか。正見に二種類あります。
最初の正見があります。これは世俗の正見で、有漏有取であっても、正見によって善趣に転じ向います。
二番目の正見があります。これは聖出世間の正見で、無漏無取であって、正見によって正しく苦を盡くし、苦邊すなわち涅槃に転じ向います。「世俗」
前世の満たされない思い有結から生じる愛(タンハー)が滅盡しておらず、漏となって心にストレス感を生じています。取すなわち愛(タンハー)の実現に執着する掉慢無明が動いています。いわゆる世間福を求めている修行者。
「聖出世間」
有結と愛(タンハー)が滅盡していて漏がなく、掉慢無明を捨離していて執着することがなく、涅槃に転じ向かっています。出世間福を得ることを願っている聖弟子。
「有漏有取」
有漏とは、過去世などでの満たされない思いである、有結と愛(タンハー)が存在していて、この愛(タンハー)が表面意識に漏れていること。
有取は愛(タンハー)の実現に執着する掉慢無明が動いていること。
四念処観による修行が、「身は不浄なり」を寂滅する、また「受は苦なり」を寂滅する段階にあることを示しています。
「無漏無取」
無漏とは、有結と愛(タンハー)が滅尽していて、愛(タンハー)が心に漏れてくることがないこと。
無取は愛(タンハー)の実現に対する執着がなくなっている、すなわち掉慢無明を捨離していること。
四念処観による修行が、「心は無常なり」を寂滅し、「法は無我なり」を成就している段階にあることを示しています。
(仏陀に学脳と心 第五巻 参照)「善趣に向う」
地獄に向うことがない、すなわ聖者須陀洹に向います。
世間福と出世間福
この経典から世間福と出世間福がどういうものかを読み取ることが出来ます。
世俗は有漏有取であるという。 すなわち愛(タンハー)の漏があってこれに執着して生きています。この時得られる福は世間福で、この福は執着している愛(タンハー)の思いが成就することです。 けれどもこの世間福は新しい苦の縁を生じてしまいます。聖出世間は無漏無取であるという。出世間福によって愛(タンハー)を滅盡してこれによる漏がなくなり、掉慢無明を捨離して執着がなくなります。 また出世間福によって輪廻転生のカルマから離れます。
また、出世間福によって苦が尽き、解脱してニルバーナへ向います。
世俗の正見 ー 不邪見戒を護っている
何等かを正見の世俗、有漏有取にして善趣に向ふと為す。
若し彼、施有り説有りを見、乃至世間に阿羅漢ありて後有を受けずと知らば、
是れを世間に正見の世俗、有漏有取にして善趣に向うと名づく。世俗の正見はいわゆる十善戒のひとつである不邪見戒を護っているのです。
たとえ有漏有取であっても善趣すなわち須陀洹に向います。
聖出世間の正見 ー 黠慧によって觀察する
聖出世間の聖弟子の正見とはどのようなものでしょうか。
何等をか正見是れ聖出世間、無漏不取にして正しく苦を盡くし苦邊に轉向すと為す。 謂ゆる聖弟子は苦を苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し、無漏思惟に相應し、 法に於て選擇し分別推求し、黠慧を覺知して開覚し觀察するなり。
是れを正見是れ聖出世間、無漏不取にして正しく苦を盡くし苦邊に轉じ向うと名づく。聖出世間の正見とは、
① 「謂ゆる聖弟子は、苦を苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し、」
聖弟子は四諦すなわち、苦はどのようなものか、苦が生じ、苦が滅する心の仕組みを理解しており、 この苦についての智慧によって心を観察し、正しくものを見ます。
(四諦については「仏陀に学ぶ脳と心 第三巻・第五巻」で詳説しています。)② 「無漏思惟に相應し、」
この思惟(心の動き方)では、苦楽を生じる愛(タンハー)を滅盡して、愛(タンハー)の実現に執着する掉慢無明を捨離しており、この執着から生じる心の奥底から漏れでてくるストレス感がなくなっています。この状態で思惟して得られるものの見方。この①と②の二つが、聖弟子が聖出世間にいることを示しています。
③ 「法に於て選擇し分別推求し、」
法すなわち心の動きを数力と擇法によって選擇し、忍が観察される心の動きと、忍を生じない勝れた心の動きを選択し、分別(分かって区別)し、聖者の心の動きを推求します。(数力と擇法については、仏陀に学ぶ脳と心 第四巻を参照して下さい。「忍」については当ホームページ解脱に向かう」の項参照)
④ 「黠慧を覺知し開覚し觀察するなり。」
「黠慧」
自害・害他・倶害(痴によって自分や周囲を責め克害すること)がなく、自らを饒益し 他を饒益するを念じ、 多人を饒益するを念ずる勝れた智慧。
「饒益する」役に立つこと。黠慧によって動く心を覺り知り、この心を開覚し観察します。この部分に関する如意足が成就しているのです。
これが聖出世間の正見です。
(黠慧については、当ホームページ 智慧有る人 心経の項目をご参照下さい。)
「聖出世間の正見は無漏不取にして正しく苦を盡くし苦邊に轉向すと名づく」という。無漏、すなわち前世の満たされない思い有結と愛(タンハー)が滅していて心に漏れてくることがなく、不取、すなわち掉慢無明によって愛(タンハー)の実現に執着することがありません。この状態で世間を観察します。正しく苦を盡くして、苦邊すなわち涅槃に転じ向います。
「転じ向う」
ここにある「転じ」のフレーズは、心の動きである法輪が転じることを示しています。心の向きが変わるのです。
「苦邊」
苦の世界がここまでで終りとなる端まで来ている、すなわち苦が無くなったニルバーナの世界まで来ているのです。これを聖出世間の正見と名づけます。
正志に二種有り
「正志」とは、心の正しい願い、心が目指す正しい方向です。
何等をか正志と爲す。謂ゆる正志に二種有り。
正志、世俗の有漏有取にして善趣に向ふ有り。
正志、是れ聖出世間、無漏不取にして正しく苦を盡くし苦邊に轉向する有り。この部分は正見と同じ様に正志に於ても世俗と聖出世間の二つがあることを示しています。
世俗の正志 ー 欲念、恚念、害念を断つ
謂ゆる正志は出要の覺、無恚の覺、不害の覺なり。
是れを正志の世俗、有漏有取にして善趣に向ふと名づく。いわゆる世俗の正志は、出要の覺、無恚の覺、不害の覺です。
世俗の煩悩や有結から生じる有漏があってこれに染着していても、正志によって善趣(須陀洹)に向います。これを世俗の正志と名づけます。「出要の覺、無恚の覺、不害の覺」
阿含経では解脱できない心の向きが三つあって、欲念、恚念、害念であると説いています。「出要の覺」は「欲念」から出て「無欲念」に向かうことを示しています。解脱の出発点である動物の欲の行動原理すなわち「無明」からの脱出に向かうことを示しています。出要によって、無恚の覺、不害の覺が成就してゆきます。すなわち無欲念、無恚念、無害念に向かいます。「欲念、恚念、害念」、「無欲念、無恚念、無害念」については、本ホームページ「涅槃を得るには」をご参照下さい。出要の覺は、欲念からの脱出に向かい「自分は偉い」とする「無明」から脱出します。
恚念は欲念の成就が邪魔されると生じます。怒りを発して邪魔を排除しようとします。
害念は欲念を成就しようと、周囲のエネルギーを削ぐ行動へ心を向けます。不満をいい、人を責め、嫉妬し、威張り、馬鹿にし、自分の偉さを主張します。不害の覺はこの害念が断じていることを観察し知ります。
世俗の正志は十善戒の不慳貪戒、不瞋恚戒の二つを護り、心が出要・無恚・不害になるように志します。
(十善戒については「仏陀に学ぶ脳と心 第二巻」に詳説しています。ここには私達が知っている十善戒とはかなり違う大切な心の使い方が説かれています。)
聖出世間の正志 ー 數を計して意を立つる
謂ゆる聖弟子は苦は苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し、無漏思惟に相應して、 心法もて分別し、自ら決し意に解し數を計して意を立つるなり。
是を正志是れ聖出世間無漏不取にして正しく苦を盡し苦邊に轉向すと名づく。聖出世間の正志
いわゆる聖弟子は、① 「苦は苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し」
苦について如実に思惟し、集・滅・道を如実に思惟しており、② 「無漏思惟に相應して、」、
この思惟(心と脳の動き方)は、漏が尽きていることに相応しており、③ 「心法もて分別し」
心の深いレベルの動きと智慧を使って分別し、(心法とは、四念処観の 心は無常なり、と 法は無我なり を成就している心の段階)
④ 「自ら決し意に解し」
志は、愛(タンハー)によって決められるのではなく、自ずから決めることが出来、その志の意義を自ずから理解しており、⑤ 「數を計して意を立つるなり」
よく見通し計算された選択を為して、目標に向う心を打ち立てます。聖出世間の正志は、掉慢無明によって愛(タンハー)に執着することがなく漏が盡きた思惟によって、正しい欲如意足を為します。苦を盡くして苦邊すなわち涅槃に転じ向います。これを聖出世間の正志と名づけます。
世俗の正志は「欲念、恚念、害念」に向かわないことですが、聖出世間の正志はもっと心の深いレベルの智慧で善不善を分別します。「志」は愛(タンハー)によって決まるのではなく、智慧に基づいて自然 に決まります。
聖弟子は己利を逮得した脳と心で為すべき道と向かうべき方向を分別理解し、選択します。(「己利を逮得」については、本ホームページ「在家の阿羅漢へ」の項目参照)
ここから先は正語・正業・正方便・正念・正定の五つの生活のあり方が説かれています。
正語・正業・正方便・正念・正定に二種有り
いずれについても二種があります。
世俗有漏有取にして善趣に向ふ有り。
是れ聖出世間、無漏不取にして正しく苦を盡くし苦邊に轉向する有り。この部分は正見・正志と同じ様に説かれています。
世俗の弟子は有漏有取であっても、八正道によって善趣(須陀洹)に向います。
正出世間の聖弟子は無漏不取であって 正しく苦を盡し苦邊(ニルバーナ)に轉じ向います。
正語・正業・正方便・正念・正定においても、 正出世間の聖弟子は、四諦の法門が身についていてこれによって思惟をなし、無漏すなわち有結が滅盡していて漏れてくることが無く、不取すなわち、有結から生ずる愛(タンハー)を実現しようと執着する掉慢無明を捨離しています。
世俗の正語 ー 妄語・兩舌・惡口・綺語を離れる
「正語」 とは正しい言葉づかいです。
謂ゆる正語は妄語・兩舌・惡口・綺語を離るるなり。
世俗の正語は、いわゆる口の十善戒を護ること、すなわち妄語・兩舌・惡口・綺語を離れます。
(口の十善戒については 「仏陀に学ぶ脳と心 第二巻」で詳述しています。)
聖出世間の正語 ー 諸の口の惡行を貪るを除く
謂ゆる聖弟子は苦を苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し、邪命の口の四念行、諸の餘の口の惡行を貪るを除き、彼より離れて、漏無く遠離し、著して固守せず、攝持して犯さず、時節を度らず、限防を越えざるなり。
聖出世間の正語は、
①「邪命の口の四念行、諸の餘の口の惡行を貪るを除き、彼より離れて、漏無く遠離し、」
邪しまな(自己中心の)生き方から口に生じる四つの念(妄語・兩舌・惡口・綺語)が心に動くのを除き、諸々のその他の細かなことが口の惡行を貪るを除き、これらから離れて、漏れ出てくることをなくし遠離し、② 「著して固守せず、」
漏れ出てしまった口の悪行に執着することがなく、固守することがなく、(一度口に出てしまうとこれに執着して意地でも守ろうとする、この様なことがない)③「攝持して犯さず、」
常に集中してていて、軽はずみな口のきき方が漏れてしまうことがなく、④「時節を度らず、」
口に出すべき時でないときに口に出すことがなく、⑤ 「限防を越えざるなり。」
自分が言ってはならない限度を超えて語ることがないのです。「時節を度らず」
言動を為すにふさわしくない時がある。これを破って言動を為すことがない。
「限防を越えざる」
その人の立場によって発してはならない言動の限度がある。これを越えないこと。世俗の正語は口の四つの戒を護ることです。
正出世間の正語は、さらに意識を高めて、愛(タンハー)によって思わず出そうになる口の悪行を除いて、時節を度らず限防を越えないようにします。
世俗の正業 ー 殺・盜・婬を離れる
「正業」 とは善業を積む正しい行動です。
謂ゆる殺・盜・婬を離るるなり。
謂ゆる殺生・偸盗・邪婬を離れるのです。
世俗の正業は、いわゆる身の十善戒、不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒を護ることです。不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒は 単に殺生をしない、盗みをしない、邪淫をしないというだけではなく、付随する大切な心の動かし方が説かれています。仏陀に学ぶ脳と心 第二巻を参照して正しく概念を掴んで下さい。
ここまでに説かれていた世俗の八正道、正見・正志・正語・正業は全て十善戒を護るべきことが説かれていました。すなわち日常生活のあり方を説いた八正道で一番大切なことは、十善戒を護って新たな悪業を積まないことです。日常生活で悪業を積んでしまえば、いくら修行を為しても効果が上がらないからです。
八正道はここから出発しているのです。
聖出世間の正業 ー 諸の身の惡行の數を貪るを離れる
謂ゆる聖弟子は苦を苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し、邪命の念、身の三惡行、諸の餘の身の惡行の數を貪るを 漏無く心著して固守するを楽はず、攝持して犯さず、時節を度らず、限防を越えざるなり。
① 「邪命の念、身の三惡行、諸の餘の身の惡行の數を貪るを、 漏無く心著して固守するを楽はず、」
「邪しまな(自己中心の)思いによって生じる生き方が思わず漏れて、身の三悪行である殺生・偸盗・邪婬、さらには諸のその他の身の惡行となって數を貪るように動いてしまうものですが、 これらの行動が漏れるのをなくし、漏れ出てしまった行動に執着して正当化しようと楽(ねが)うことがありません。②「攝持して犯さず、」
集中して、①に説かれていることを犯さないようにします。③「時節を度らず、」
行動すべきでないときに行動することがなく④ 「限防を越えざるなり。」
自分が行ってはならない限度を超えることもありません。世俗の正業は身の三つの戒を護ることであり、
正出世間の正業は、さらに意識を高めて、邪悪の愛(タンハー)から思わず出てしまう身の様々な悪業を除いて、時節を度らず限防を越えないようにします。
世俗の正命 ー 衣食などを必要なだけ求める
「正命」は 正しい生活のあり方、生き方です。
謂ゆる法の如く、衣食・臥具、病に隨ひて湯藥を求め、法の如くならざるに非ず。
謂ゆる仏陀の智慧に説かれている心の動かし方によって、必要なだけの衣食を求め、必要なだけの臥具(ベッドやふとんなど)を求め、病に隨って必要となる湯藥を求め、解脱の智慧の通りに必要充分なだけを求めて生活します。
聖出世間の正命 ー 漏を無くし執着しない
謂ゆる聖弟子は苦を苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し、諸の邪命に於て、 漏無く著して固守するを楽はず、攝持して犯さず、時節を度らず、限防を越えざるなり。
聖出世間の正命は、
①「諸の邪命に於て、 漏無く」
諸々の邪しまな(自己中心の)心によって、思わず善くない生活が漏れてしまうことがなく、②「著して固守するを楽はず、」
もし漏れてしまっても、この生き方に執着して正当化し、これを固く守りたいと楽(ねが)うことがありません。③「攝持して犯さず、」
集中して、邪しまな生きかたをしてしまわないようにし、④「時節を度らず」
その時にふさわしい生活を為し、⑤「限防を越えざる」
自分に許された限度を超えて生活することがないのです。
世俗の正方便 ー 四正断を為す
「正方便」とは、精進・四正断を実践することです。不善の心が動いていることを観察したら、出来るだけ速やかに善い心の状態に切り替えます。ここには精進に向う心構えが厳しく示されており、解脱を志すものはこのように取り組まねばならないと思います。
謂ゆる精進方便して超出せんと欲し、堅固に建立し、造作し、 精進するに堪能し、心法もて攝受して常に休息せざる。
①「謂ゆる精進方便して超出せんと欲し、」
謂ゆる善法を選擇する精進方便(四正断)を為して、超出(世の中のあり方を超えて存在)しようと欲し、②「堅固に建立し、造作し、 」
常に善法を擇法しようと、精進方便を堅固に建立し、心に造作し、③「精進するに堪能し、」
善法を擇法する精進によく上達し、④「心法もて攝受して常に休息せざる。」
心の奥深くの動きまで集中して観察し、常に擇法への心構えを休息しないようにします。精進とは四正断を実践し善い心に切り替えることです。(第四巻 参照)
聖出世間の正方便 ー 心法もて精進方便す
謂ゆる聖弟子は苦を苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し、無漏憶念に相應し、心法もて精進方便して勤踊して超出せんと欲し、堅固に建立し造作し精進するに堪能し、 心法もて攝受して常に休息せざる。
心法もてという。心法とは何か。四念処観の「身・受・心・法」のうち、心と法の念処を示しています。 「心(しん」の念處にある「愛(タンハー)」と、「法」の念處にある掉慢無明による執着が寂滅するように、精進方便します。
聖出世間の正方便は、
①「無漏憶念に相應し、勤踊して超出せんと欲し、」
「愛(タンハー)」と、掉慢無明による執着が寂滅した状態をイメージして、湧き上がる思いで、超出し(世の中を越え)ようと欲し、②「堅固に建立し造作し精進するに堪能し、」
精進擇法を、堅固に建立し造作し、精進擇法に上達し、③「心法もて攝受して常に休息せざる。」
精進方便の作業は、「心(しん」と「法」の念處まで、すなわち心の奥深くまで集中して観察し、常に休息しないで善法を保つのです。聖出世間の正方便は、表面意識だけでなく「愛(タンハー)」と、掉慢無明の心の動きを寂滅させようと、心の奥深くまで観察し精進(擇法)します。
世俗と正出世間の違いはこの他にもう一つあります。正出世間では「勤踊して超出せんと欲し」とあり、勤踊して精進するのだという。すなわち世俗よりも遙かに強く躍り上がるような気持ちで超出するのだという。この様なエネルギーによって初めて愛(タンハー)と掉慢無明を寂滅出来るのでしょう。阿含経典には、「唯精進のみ修習するも阿耨多羅三藐三菩提を得」とあり、精進が解脱に向かう根本であることが説かれています。
世俗の正念 ー 無欲念・無恚念・無害念
「正念」とは、 正しく心を観察し、貪瞋痴をなくすことに向います。
若し念に隨ひ念を重んじ念を憶念するに妄れず虚しからざるなり。
常に正しい念、すなわち無欲念・無恚念・無害念に随い、これを重んじています。無欲念・無恚念・無害念に随っていない心の動きを観察し知ったときにはすぐに心を切り替えて対処します。常にこの念が心にあって、忘れないようにしています。
聖出世間の正念 ー 無漏不取に向かう
謂ゆる聖弟子は苦を苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し、無漏思惟に相應し、若し念に隨ひ念を重んじ念を憶念するに妄れず虚しからざるなり。
聖出世間の正念は、① 心が無漏不取に随うようにし、これを重んじています。もし無漏不取に随っていない心の動きを観察し知ったときには、すぐに無漏不取の心に切り替えます。
② 無漏不取を常に心において忘れないようにします。心の奥底にある僅かな前世のストレス感「憂苦・悔恨・埋没・障礙」であっても、観察したら擇法に向かいこれから離れるようにします。
世俗の正定 ー 不亂不動に住し四禅に寂止する
「正定」とは、心を寂静にし、三昧正受に住していて、常に四禅などの喜びに住しています。
若し心、不亂不動に住し攝受して三昧一心に寂止するなり。
心が、不亂不動に住し、集中して三昧一心に寂止しています。世俗の正定では、世間の出来事によって苦や悩みが生じて、心が乱され動かされることがないようにします。
「攝受」
仏教語大辞典には、受け入れること。心を寛大にして他人を受け入れ反発しないこと、 とあります。ここでは常に三昧一心にあるよう心を集中し、散乱させないようにします。
聖出世間の正定 ー 心法もて不亂不散に住す
謂ゆる聖弟子は苦を苦なりと思惟し、集・滅・道は道なりと思惟し、無漏思惟に相應し、心法もて不亂不散に住して攝受し三昧一心に寂止するなり。
心法もてという。心法とは何か。四念処観の「身・受・心・法」のうち、心と法の念処を示しています。
聖出世間の正定は、
「心(しん」の念處にある「愛(タンハー)」と、「法」の念處にある掉慢無明による執着が寂滅していて、心の奥深くまで不乱不動に住しています。この状態を観察して穏やかな心になっているのです。すなわち脳と心の奥深くまで三昧一心に寂止しています。
佛此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘佛の所説を聞きて歡喜奉行しき。
雑阿含経 一二五二四 広説八聖道経より
まとめ
心の境涯によって、実践する八正道には二つの段階があることが説かれていました。それぞれ世俗の八正道と聖出世間の八正道です。
この二つを比べてみると、修行の段階が進むにつれて、どのように心を向けて日常生活を送ることになるかが見えてきます。世俗の八正道。
心の奥には有結と愛(タンハー)があって世間福を求めています。 世俗の弟子でも、八正道の実践によって善趣(聖者須陀洹)に向かいます。聖出世間の八正道。
日常の生活に於ても、聖弟子の四諦の智慧が常に心の中心にあり、有漏と愛(タンハー)を滅盡し掉慢無明を捨離します。すなわち出世間福に向かいます。
聖出世間の聖弟子は八正道によって苦を盡くし、苦邊すなわち涅槃に転じ向います。世俗の八正道をまとめておきましょう。
前半の正見・正志・正語・正業は十善戒の護持によって新たな悪業を積まないために為し、 後半の正命・正精進・正念・正定は解脱への階梯を示しています。
正命は、修行の前提となる正しい生活を保ちます。
ここからの正方便・正念・正定には、解脱に向う三つの道が示されています。
正方便は、四正断によるたゆまない精進努力の実践です。すなわち四念処観の実践のとき必要な擇法の技術を身につけます。
正念は、無欲念・無恚念・無害念に常に心を向けて解脱への道を歩みます。四念処観を実践するとき、常住座臥向けているべき心の方向です。
正定は、四念処観の実践によって得た、寂静の心を保って散乱することなく喜びの三昧正受の不放逸に住します。
最後に解脱に向かう日常生活における大切な心構えを書き留めて置きましょう。
「私は正しいのだ。」
「私は偉いのだ。」
「私を偉く見せたい。」
「馬鹿にされたくない。」
脳の奥底から湧き上がってくるこの「我(が)」の思いを捨て離れるのです。私達はこの思いを満足させるために生まれてきたのだと思ってしまいます。けれども解脱の道は、自分の至らぬ認識空間と不善の心を発見し、これを直して、新たな役に立つ力強い日常生活を作り出すことにあります。常に謙虚に自分を観察していないとこの道が見えてこないのです。自分の脳が把握している世界は部分的なものであり、自分を越えた、拡大した、多面的な空間が存在することを知り、どんな人でも自分が持っていない知識と智慧の空間への入り口を持っていることを知って、学びに行くのです。初心の修行者であっても、たとえ阿羅漢になっていても、この「我(が)」の心の動きが解脱を妨げる最大のエネルギーです。解脱の最終段階にいても、この脳の動きが少しでもあると先へ進むことが出来ないのです。このことを常に胸に刻(きざ)んで、「我(が)」の引力に負けないように過ごしたいものです。
八正道による日常生活 終わり
付記 三昧正受について
最後に三昧正受についてふれておきます。
三昧正受は、寂静の心を保って散乱することなく、喜びなどのひとつの状態を心一杯に満たして、散乱しないで静止していることです。三十七菩提分法 五根法の中の定根は、三昧正受である四禅に住することを説いています。四禅は、四念処法の成就の段階によってひとりでに生じてきます。各段階で生じる喜びを心一杯に満たして動かずに住しているのです。
三昧正受は瞑想とは少し感覚が違っています。瞑想では心を拡大して観察しようとします。三昧正受は静止した心を求めているのです。 お釈迦様が説かれたのは瞑想と言うよりも三昧正受です。このことも心に留めておいて下さい。
「寂滅の所作を知れば神通を開発し正しく涅槃に向かう。」(六六経より。第四巻に解説しています)これがお釈迦様が説かれた解脱に向かう道です。
付記 三昧正受について 終わり
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