解脱へ向かう ひの出版室

 

解脱へ向かう

忍を観察す(信行) ~ 神通を開発す(阿羅漢倶解脱)へ

雑阿含経 一二七八〇 六内處経より

平成26年9月25日阿山恭久記す( 平成29年6月18日 改訂Y..)

 悩みやストレスがない生活を送り、それぞれの人が受け持つ社会での役割を見事に果たしている、この様な人生を送りたいと思いませんか。それに向かう方法、解脱に向かう道を、お釈迦様は説いて下さっています。
 解脱に向かう道、その入り口から聖者である須陀洹、阿羅漢まで、それぞれの段階はどのようなものか、そのイメージは描けていますか。目標とするイメージが見えていない所へは到達出来ないとは思いませんか。
 本ページでは解脱に向かう出発点から、須陀洹、阿羅漢まで、そのイメージを描いて頂くことを目標としています。

 このページでは、雑阿含経六内處経によって解脱へ向かう道を求めます。六内處経では、最初に取り組むべき修行法は「信行」、そして次は「法行」と名づけられています。

 (タイトル以外の太字の部分は、概ね 国訳一切経印度撰述の部阿含の部 大東出版社 から引用しています)

解脱への階梯

 仏教の経典には修行が進むにつれて上がってゆく心の境涯が説かれています。 修行が始まる最初の階梯から阿羅漢までどのように呼ばれているか。 順に見ておきましょう。

① 随信行(向須陀洹) 
② 随法行(向須陀洹)
③ 須陀洹
④ 家家(向斯陀含)
⑤ 斯陀含
⑥ 一種子道(向阿那含)
⑦ 信解脱(向阿那含)
⑧ 阿那含見到
⑨ 阿那含身證
⑩(向阿羅漢)
⑪ 阿羅漢慧解脱
⑫ 阿羅漢倶解脱

 これらの階梯の修行は苦しみや悩みによる心の散乱をなくして、穏やかで安らかな心を成就し、抜群の行動力とエネルギー感を得るのが目標です。
 心の散乱がなくなると集中力が上がって、抜群の行動力と洞察力がでてきます 。

 これから紹介する雑阿含経六内處経には解脱に向かう最初の段階「信行」と「法行」、そして「須陀洹」「阿羅漢」について記述されています。
解脱に向う最初の段階、信行とはどの様な修行でしょうか。
(「仏陀に学ぶ脳と心」第一巻は主として信行の修行を紹介しています。)

六内入處とは

雑阿含経 一二七八〇 六内處経より

是の如く我れ聞きぬ。一時佛、舍衞國祇樹給孤獨園に住り給へり。 爾の時世尊諸の比丘に告げ給はく。

このように私は聞きました。ある時お釈迦様は、舍衞國祇樹給孤獨園に滞在しておられました。 その時お釈迦様が諸の比丘にお告げになりました。

「内六入處有り。云何が六と為す。謂ゆる眼内入處、耳・鼻・舌・身・意内入處なり。

脳内に六つの、心の情報が動いている場所があります。何を六とするのでしょうか。
いわゆる眼内入處、耳・鼻・舌・身・意内入處です。

 人間が持っている六つのセンサー六感に対応して、脳の情報処理の領域「六處」が存在しています。 「六處」に世の中から情報が入ってくると、凡夫は脳に取り込まれたこの情報に反応して、苦しみや悩みを生じてしまいます。この苦しみを大きく育ててしまう脳と心の仕組みが問題なのです。

修行は始まっているか

 解脱への修行は、自分の心に、世の中の役に立たちにくい、むしろ害となる動きをする仕組みがあることを知ることから始まります。お釈迦様はこの心の動きは「無明」から始まると説いておられます。
 進化の過程で培われた「動物の欲の行動原理」、これが無明です。無明から生じる脳と心の動きは「欲念」と呼ばれています。「欲念」から悪い心癖「恚念・害念」が生じてきます。
 「欲念」から生じる最も強い脳と心の動きは何か。 自分は偉いのだ、自分は正しい、偉く見せたいと、自分の「優位」を主張する猿の時代の心です。
 自分は偉い、正しいと思っている人は、直そうと思うことがないので解脱に向かうことが出来ません。
 多くの人はここを突破できないでいるのです。
「欲念」を無くしたいとの強い決心がなければ修行は始まりません。

( 欲念・恚念・害念と無欲念・無恚念・無害念については、本ホームページ「涅槃に向かうには」をご参照下さい。)

信行

 さて、修行が始まる最初の段階は「信行」と名づけられています。信行は須陀洹に向う最初の修行「向須陀洹」の段階です。

 脳にプログラムされた「自分は偉いのだ]と叫ぶ「動物の欲の行動原理」欲念と、欲念を満たそうと生じる恚念・害念を寂滅させる、これが仏陀の解脱法で最初に取り組むべきテーマです。この仏陀の解脱法を信じていると、この修行によって解脱したいと思う心の動き「行(ぎょう)」が生じます。
信行では、仏陀と仏陀の解脱法を信じる力によって欲念・恚念・害念の寂滅に向かいます。 解脱に抵抗する心に信の力で対抗して心を制御します。

此の六法に於て忍を觀察するを名づけて信行と為す。

この六内處の心の動きに於て忍を觀察するなら、これを名づけて信行とします。

超昇して生より離れ、凡夫地を越ゆるも、未だ須陀洹果を得ず、 乃至未だ命終せざるも要ず須陀洹果を得。

超昇して、苦を生じる生きかたを離れ、凡夫地を越えていても、未だ須陀洹果を得ていません。 けれどもここからの修行によって未だ命終しないうちに必ず須陀洹果を得ます。

 信行は、仏陀と仏陀の解脱法を知り、また仏陀の解脱法の実践によって解脱に向かっている人々がいることを知って、「この修行を為せば解脱に向かう」と、心ときめき、信じることから始まります。ここに苦しみを滅する道があると信じるのです。信行では信じる力によって解脱に向かいます。

 信を培う

この信を培(つちか)うにはどの様になせば良いのでしょうか。
仏陀に学ぶ脳と心 第四巻では、信を培うこつが説かれた盡智経を取り上げています。慚愧を生じ愛恭敬をなすことから始めるのだという。すなわち、自分の現在の状態を恥ずかしいと感じ、仏陀を敬い愛する気持ちを持つことから出発します。さらに盡智経には信を培う九つの段階が説かれています。

「忍」を觀察する

 信行のポイントは「忍」を觀察することです。 「忍」を觀察するとは何か。心に 「忍」を観察すると、このときに解脱すべき心が動いていると知ります。
 「忍」と翻訳されているパーリー語は、Adhivãsana です。自己の主張を忍んで相手に同意することを示しています。(雲井照善著 パーリー語仏語辞典より)
 字通には 忍耐、忍住すること、とあります。  

 解脱すべき善くない心の動きが生じたことを感じ、知ると、この心が動いてはいけないのだと、ストレス感が生じるのです。
 このストレス感を「忍」と呼んでいます。 「忍」を観察したらその時の心の動きを制御し、なくすようにします。

この様に忍を観察するから解脱に向かう修行が進んでゆきます。

解脱すべき心とは

 解脱の作業の最初の取り組みは、欲念・恚念・害念と名付けられた悪い心癖を直すことです。 恚念・害念からは様々な心の姿が生じてきます。この姿も阿含経典から学ぶことが出来ます。(「仏陀に学ぶ脳と心 第一巻 第五巻」などで紹介しています。)

欲念から生じる恚念・害念

「私は偉い」と自分の優位を主張する欲念は、この自分の偉さを実現しようと恚念・害念を生じます。たとえ自己中心の心、恚念・害念であっても、これを為さないと子孫を護り自分の優位を護ることが出来ないとプログラムされているのです。
それでもこの心の動き欲念・恚念・害念が動くと苦しみや悩みが生じてきます。恚念・害念の思いは満たされることはなく、たとえ満たされても周囲を傷つけて、世間から、苦しみとなり悩みとなるリアクションが返ってきます。恚念・害念は自分にとっても周囲の人達にとっても有害なのです。 この恚念・害念が最初に解脱すべき心です。

恚念・害念を滅するには「我(が)」をなくす

 恚念・害念を無くすには最初に為さなければならないことがあります。恚念・害念を生じてしまう動物の欲の行動原理、「自分は偉いのだ」とする欲念、無明を滅するのです。
どの様にこの無明の心の存在を知るのか。私は偉い、私は正しいと主張し 、自分の偉さを示そうとする、「我(が)」の心があることを注意深く観察するのです。この心がある限り恚念・害念を無くすことが出来ません。

解脱の実践

解脱すべき心を認める

 解脱して穏やかな心に向かうには、自分には悪い心癖を生ずる脳の仕組みがあり、世の中の役に立ちにくい至らない心の動きがあると認めなければなりません。

心を制御する

 解脱すべき心の動きが分かったら、これが動いていないか常に観察し、制御します。

 つまり動かないようにするのです。しかし心はなかなか言うことを聞いてくれません。
何度も何度も失敗してしまいます。それでも悪い心癖を無くそうと、格闘するように取り組んでいます。目指す所は、世間からやってくる出来事に、脳と心が反応しなくなることです。

忍を観察する

 解脱したいと思っている心癖が動き出すと、Adhivãsana すなわち欲や愛(タンハー)の主張を忍んで、これが解脱するべき心であると同意する、すなわち堪え忍ぶ心の動き「忍」が観察されるのです。
自分の好ましくない心を認めて堪え忍んでいる心を観察する、これが「忍」です。  解脱の第一歩はここから始まります。
 悪い心癖をなくすには、悪い心癖が見えていることが必要なのです。見えていないものをなくすことは出来ません。

忍が観察されない心に切り替える

 忍が生じているのを観察し知ったら、忍が観察されない心を求め、思い起こし、心の動きを切り替えます。いわゆる擇法(ちゃくほう)を為すのです。これを繰り返して、悪不善の法を滅し善法を増長し確立します。
擇法(ちゃくほう)がうまく出来ないときは「自然の神力(じねんのじんりき)」を使うことを思い出して下さい。

 一乗道である四念處法では正にこのことを為します。
これが「解脱に向かう道」です。

信行の功徳

 信行を為す功徳はどの様なものか。

① 超昇して生を離れ凡夫地を越えるも、未だ須陀洹果を得ず。
② 乃至未だ命終せざるも必ず須陀洹果を得。

という。

① まず「超昇して」という。信行によって「忍」を観察し擇法を為していると、超昇すなわち、ものすごい勢いで境涯が高まって行く。「生を離れ」すなわち苦を生じる生き方を離れて、凡夫である姿を越えるのだという。

 けれどもまだ須陀洹にはなっていない。 須陀洹果とは須陀洹になると得られる果報です。

② この状態の修行を進めていると、生きているうちに必ず須陀洹果を得られます。

 須陀洹に向かう修行の始まりは信行にあるのです。
信行が解脱に向かう最初の修行です。信行によって欲心・恚心・害心を制御できるようになります。

法行

 次は「法行」という段階です。
 法とは脳と心の動き方です。
 心の動きにどうして恚念・害念が生じてしまうのか」、これが法行における「法」のテーマです。
 恚念・害念を生じてしまう心の仕組み「法」を寂滅すれば須陀洹になることを知って、心ときめき、実践への思いが生じ、須陀洹に向かう心の動き「行(ぎょう)」が生じます。
 「どうして恚念・害念が生じてしまうのか」、法行ではこれを知ってこの部分の脳の動きを寂滅させます。

若し此の諸法に増上して忍を觀察せば名づけて法行と爲す。超昇して生を離れ、凡夫地を越ゆるも、未だ須陀洹果を得ず、乃至未だ命終せざるも要ず須陀洹果を得。

もしこの諸法(六内處の脳の動き)に増上して(心の奥深くを観察し)動物の欲への執着を見て、忍を觀察すれば、これを法行と名づけます。
超昇し苦を生じる生き方を離れ、凡夫地を越えますが、未だ須陀洹果を得ていません。
法行を為していれば、未だ命終しないうちに必ず須陀洹果を得ることが出来ます。

 増上して忍を觀察する。

 増上して忍を觀察するとは何か。
ここでは「増上して」に秘密があります。
 心の奥深い部分で動いている恚念・害念を生じさせる働き「欲念」、この脳の衝動とも言える動物の欲への執着を知り、これから離れようとすると、ストレス感「忍」が観察されます。

 忍が觀察されるから心の奥で欲念。恚念・害念が動いていると知ります。

 恚念・害念から離れるには

 欲念とは、動物として強力にプログラムされた「我(が)」すなわち「我」を護ろうとする欲と執着です。 この執着のエネルギーはあまりに強いので衝動的に動いて恚念・害念を生じ、智慧の働く余地がないのです。 お釈迦様はこの脳のエネルギーを「無明」と名づけておられます。 縁起の法・十二因縁の出発点にある「無明」です。

 恚念・害念が生じなくするには。「欲念・無明」から離れることが必要です。
私達が恚念・害念から離れることが出来ないのは、このことに気がついていないからです。

 無明が自分の中にあるのを見つける

 無明から出てくる代表的な想念は、「自分は偉い、自分は正しい」という我を主張する思いでした。世の中に何も起きていなくても、この思いが 胸の中にくすぶっています。自分の偉さを周囲に見せようと手ぐすね引いて待ち構えているのです。
 絶対に損したくない。絶対に馬鹿にされたくない。
 無明があると、こんな思いがいつも 胸の中にくすぶっています。

 このようなことになってはいませんか。ほんとうになっていないでしょうか。

 代表的な無明からでる身見によって動く表れをあげてみました。脳の奥深くまでこのような思いがなくならないと解脱が進みません。

 でも、この無明の思いを消したら何もできなくなってしまう、と思いませんでしたか。
 実際には、私達はこの無明の思いに束縛されているために、自在に行動することが出来なくなっているのです。無明がない方が世の中や周囲の人の役に立つことに集中した良い働きが出来ると思いませんか。

無明は一日中いつでも動いている

縁起の法 無明と行

 無明は一日中いつでも動いています。恚念・害念がでてくる時だけ動くのではありません。この一日中動いている様を、縁起の法では「行(ぎょう)」と呼んでいます。朝から晩まで寝ても覚めても「我」を護らねばならぬことはないかと記憶の中を探し回り、記憶の中にある事象が世間からやってこないか見張っています。
縁起の法は「無明」「行」から始まる脳の動きを示しています。

三事和合

・ 我・我所を護った記憶、また動物の欲の実現に関わった記憶、「識」を探します。
・ 過去の記憶「識」が示す物事の姿「名色」を求めます。
・ 眼耳鼻舌身から脳に入力された情報が「六入」です。
・「識」と、「名色」「六入」が照合されて一致すると「觸」すなわち「三事和合」が起きます。
・ 三事和合は「受」を生じます。

色受から生じる憂悲悩苦

 「受」は表面意識に表れた対処すべき情報「色受陰」です。

 ここで触れている「縁起の法」「三事和合」「色受陰」「五蘊」「自然の神力」等の概念はお釈迦様の智慧の核心部分です。五巻の「仏陀に学ぶ脳と心」の中で解説してきました。ご参照下さい。

無明が見えたらどうする

 脳の奥深くで無条件に動いている我・我所への執着「欲念・無明」を見つけ知ったら、「欲念・無明」から離れようとします。このときにも「忍」が観察されるのです。 「欲念・無明」から離れると執着を達成することが出来ないと、ストレス感「忍」が観察されます。離れようとすると「忍」が観察される、これを見つめて無明を離れます。
「忍」を観察したら、「欲念・無明」から離れていて、恚念・害念が生じない心を求め、切り替えます。ここでも擇法(ちゃくほう)を為して無明から離れるのです。これを繰り返して、恚念・害念を生じない心を確立します。

 これが「解脱に向かう道」の第二段階です。

 ここでもこの身見となって表れる「我」への衝動と執着「欲念・無明」を、解脱すべき脳の動きと分かっていなければ、「忍」が観察されることがなく、解脱に向かうきっかけを掴むとができません。

 自然の神力(じねんのじんりき)を動かす

 擇法を為す時には、最勝の仏陀の智慧である「自然の神力」を使います。
 身見となって表れる「我(が)」のエネルギーをなくすには、潜在意識が備えている進歩向上する力、いわゆる「自然の神力(じねんのじんりき)」を動かして、執着が消えて行くのを待ちます。
 自然の神力を動かすには、目標達成への強い決意と、達成に必要な情報が脳に蓄積されていることが必要でした。法行において動かす自然の神力に必要な情報の蓄積は「正思惟」と名づけられた道によって養います。 
 「正思惟」については「仏陀に学ぶ脳と心 第四巻」をご参照下さい。

 「自然の神力」を使って、無明すなわち、我の偉さを実現する強い衝動、欲念から離れ、恚念・害念の滅盡を求めれば、苦が寂滅した心が成就してゆきます。

 自然の神力を実際に実践する方法が、雑阿含経諸根修経に説かれています。 如来の厭離・如来の不厭離を実践するのです。
(自然の神力については、「仏陀に学ぶ脳と心 第一巻」で取り上げています。)

 法行では自然の神力を使って、無明である「我執」と、身見を滅します。
 実際にはどのようにするのでしょう。
 無明の心を見つけたら、じっと見つめて、「この心を消してね」と静かに穏やかに潜在意識に伝えておきます。

法行の果報

 法行によって得られる果報については、信行と同じ内容が記されています。

 超昇して生を離れ凡夫地を越えます。

 信行と同じテキストであっても、法行の果報である「超昇して」も「生を離れ」も「凡夫地を越え」も、信行とは全くレベルの違うものであることをお分かり頂けると思います。

須陀洹

 ここからはいよいよ須陀洹の階梯です。
信行と法行を成就すると須陀洹に至ります。

若し此の諸法に實の如く正智もて觀察せば、三結已に盡き已に知る。
謂ゆる身見・戒取・疑なり。是れを須陀洹と名づく。
決定して惡趣に墮ちず。定んで三菩提に趣き七有の天人に往生し苦邊を究竟す。

もしこの諸法(六内處の心の動き)を、實の如く正智(寂滅への道を知り、寂滅を知る)をもって觀察すれば、三結はすでに盡きており、已に須陀洹の歩む道を知っています。三結とはいわゆる身見・戒取・疑です。
これを須陀洹と名づけます。
表面意識が憂い悩み苦しみによって散乱しなくなれば、惡趣(地獄)に墮ちることがありません。定んで(心は寂滅して)三菩提(無等等、あのくたらさんみゃくさんぼだい)に趣き向かい、七回天界と人間界を生まれ変わりして、苦邊を究竟し(解脱を成し遂げ)ます。

 須陀洹のポイントは「實の如く正智もて觀察せば」にあります。
「實の如くとは、脳と心の奥深くで動く愛(タンハー)と、愛(タンハー)を実現しようと動く掉慢無明の姿をありのままに全て知り観察します。
 須陀洹に於ける「實の如く正智もて観察する」は、法行からもう一段階深い心の動きを観察するのです。法行の完成によって、欲念が恚念・害念を生じ苦を生じることがなくなり、欲念から離れることが出来るようになっています。法行の成就によって私は偉い、正しいと主張する欲念はなくなっています。すなわち身見が切れているのです。
 しかし須陀洹になっていてもまだ、前世での満たされない思いである有結と愛(タンハー)が動いており、掉慢無明も動いています。
 恚念・害念が新たに生じなくなっていても、記憶に蓄えられた欲念・恚念・害念によって、愛(タンハー)が動かされ五蘊が変転し、苦が生じ育ってゆきます。
須陀洹の「實の如く正智もて觀察す」はこのことを観察します。

須陀洹の修行

 須陀洹の段階では、愛(タンハー)によって生じる五蘊の動きを寂滅することに向かいます。
 心の奥深くにある愛(タンハー)が過去の記憶の中を探しまわり 、愛(タンハー)の実現を求めて脳内に五蘊の動きを生じ、苦や悩みを生じてゆきます。
 須陀洹における修行は、愛(タンハー)から離れて、愛(タンハー)による脳内の五蘊の動きを寂滅します。

「身見」とは「我が身第一」と見て 心を動かすことで、欲念すなわち「我(が)]となってあらわれます。
「我(が)]がなくなれば身見はなくなっています。

 欲念が滅すれば、悪い心癖、恚念・害念が生じることが無くなる、この解脱システムに疑いがなくなれば、疑惑がなくなっています。

 欲念から離れないで、恚念・害念を無くそうとする、すなわち、強引に戒を護ろうとする執着が戒取です。 欲念が無くなれば戒取ははなくなっています。

 須陀洹の境涯になれば三結は滅して、世間に反応して動いていた表面意識は寂静になります。

須陀洹の果報

 須陀洹になれば現世でも来世でも、惡趣(地獄の境涯)に落ちることがなく、心は寂静となってニルバーナに向います。
七回天界と人間界を往復して苦邊を究竟し、阿羅漢となります。

斯陀含と阿那含

 斯陀含では、愛(タンハー)から生じる表面意識の五蘊の動きが寂滅し、
 阿那含では脳の奥深くに存在する愛(タンハー)が滅尽します。

阿羅漢

此等の諸法を正智もて観察し、諸漏を起さず、欲を離れて、解脱すれば阿羅漢と名づく。
諸漏已に盡き、所作已に作し、諸の重擔を離れ、己利を逮得し、諸の有結を盡くし、正智にして心善く解脱す」と。

これらの諸法(六内處の動きを正智すなわち脳と心にある自分は偉い正しいと主張し執着する我(が)による見方を離れて観察します。脳と心の一番奥深くまで寂滅していると知ります。
諸漏を起こすことがなく、動物の無明の欲を離れており、有結と愛(タンハー)を滅尽し、掉慢無明を捨離していれば、これを阿羅漢と名づけます。

諸漏已に盡き、所作已に作し、諸の重擔を離れ、己利を逮得し、諸の有結を盡くし、「心は善く解脱」していると正智しています。

 阿羅漢は、脳と心の三界全てが寂滅していると正智(我(が)を離れて知る)します。

 諸漏を起こさず

 阿羅漢の第一のポイントは「諸漏を起こさず」です。

 阿羅漢は動物の欲に対する執着(無明)と、前世から持ってきた愛(タンハー)に対する執着(掉慢無明)がともに滅尽しています。

 心の一番奥深くまで正智によって觀察してみても、表面意識に諸々の「漏」による苦なる五蘊の動きが観察されることがありません。寂滅した心の奥深くから、ストレス感「憂苦・悔恨・埋没・障礙」(第二巻 甚深経の項参照)が漏れてくることがないのです。

 諸漏、すなわち欲の有漏・有の有漏・無明の有漏の三つの有漏が観察されることがありません。
 欲の有漏があると、動物の欲への執着が表面意識に漏れてきます。
 有の有漏があると、心の奥深くにある有結と愛(タンハー)によるストレス感が漏れてきます。
 無明の有漏があると、「我の偉さ」を求める執着が漏れてきます。

 諸漏已に盡き、所作已に作し、諸の重擔を離れ

 この三つの項目は、表面意識に苦を生じる五蘊の動きがなくなっていることを示しています。
 「諸漏已に盡き」は、脳と心の奥底から、表面意識に苦を生じる衝動が漏れてくることがなくなっているのです。
 「所作已に作し」は、自分が偉いとし、正しいと主張し執着する我(が)を寂滅し終わっています。
 「諸の重擔を離れ」は、動物の欲を満たそうとする無明と、前世からの愛(タンハー)を満たそうとする無明、すなわち生きて行く上で重荷となる二つの心への執着から離れていることを示しています。

 阿羅漢の境涯

諸漏已に盡き、所作已に作し、諸の重擔を離れ、己利を逮得し、 諸の有結を盡くし、正智にして心善く解脱す。

は、阿羅漢が到達した心の境涯を示しています。「梵行已に立ち」はないのかなと思われた方もいらっしゃるでしょう。いくつかの経典では「諸漏已に盡き」の後ろに「梵行已に立ち」が挿入されていますが、雑阿含経では「梵行已に立ち」がないのが主流です。「梵行已に立ち」を阿羅漢の境涯を表す総称と見ているのかも知れません。
 阿羅漢の境涯については「仏陀に学ぶ脳と心」の中で取り上げてまいりましたが、この経典のフレーズの中では、

諸の重擔を離れ、
己利を逮得し、

の二つのフレーズを正しくイメージすることが大切です。

「諸の重擔を離れ」は生きる上で重荷になっていることを離れます。人生の最大の重荷は何でしょうか。動物の欲の無明と、愛(タンハー)を実現しようとする執着、掉慢無明であることを「仏陀に学ぶ脳と心」第五巻から読み取って頂きたいと思います。

この二つの無明は、自分を偉いとし正しいとし、偉くみせようとする、我(が)を生じているのです。

己利を逮得す

 「己利を逮得し」は阿羅漢が到達する最も大切な境涯を示しています。このことを密教では「解脱知見」と呼び、私(著者)は「法輪を転ずる」と呼んでいます。また他の阿含経のテキストでは「自ずから善義を得」と翻訳しています。

「己利を逮得し」は「諸の重擔を離れ」を為すと向かうことが出来ます。

 己利についてもう少し分析しておきましょう。

 己の文字は何を意味するのか。いつもの様に字通を引いてみましょう。
「己」の字は定規の形を表し規範を示し、「おさめる」ことを意味しています。自分という意味はここから発生した二次的なものであるといいます。
「利」はどうか。①するどい、すばやい、よい、②かなう、なめらか、とおる、③さいわい、冨、もうけ、むさぼり、利益、④はたらき、いきおい、かつ、まさる、 とあります。
 己利から現代人が受ける、「自分の利益を求める」というイメージと、本来の漢字が持っているイメージとはだいぶ違う ことがわかります。ここにも漢訳のセンスのすばらしさを感じてしまいます。
 己利に相当するパーリー語も見ておきましょう。
己利のパーリー語は、sadattha で、sad は最高の善、正しい理、妙義などを示し、-attha は 、目的とする、めざす、願い、等をあらわします。

 阿羅漢に達した人が得る、自分が阿羅漢に到達したと分かる境地が己利です。 心のエネルギーの向きが変わったことが自覚されるのです。

「己利」については当ホームページー阿含経を読むー阿羅漢に向かう にも関連する解説を掲載してあります。

 阿羅漢に近づくと得られる心の状態

 私達凡人は、いつも心の中で何か呟いています。この心の「つぶやき」が全くなくなるのです。ふたつの無明から離れて、縁起の法が説く「行(ぎょう)」が停止しています。静かに寂滅した時が流れて行く、こんな時間を過ごすことが出来ます。もちろん世間の働きを為す時には脳と心を活発に動かしますが、迷いによる「つぶやき」が生じることはありません。

 もうひとつできるようになることをあげてみましょう。
 阿含経には「八解脱」という境涯が説かれています。(第五巻 参照)
 この「八解脱」が実践できるようになるのです。
 たとえば「八解脱」の二番目の項目に、「内色相なくして外色を見る」というのがあります。すなわち記憶を探しまわることなく、記憶に存在しない新しい現象であっても観察し認識することが出来るのです。もし記憶にあることであっても、記憶の質にとらわれずに認識します。世間を認識するときに、三事和合を必要としない、すなわち縁起の法が動くことがないのです。

阿羅漢倶解脱へ向かう

 己利を逮得すは慧見によって解脱を 知ったことを示しています。すなわち慧解脱の阿羅漢になったのです。この先にあるテキスト

 諸の有結を盡くし、正智にして心善く解脱す。

は阿羅漢倶解脱を得たことを示すテキストです。

 阿羅漢倶解脱は単に苦を生じる心の行(ぎょう)が寂滅しているだけでなく、身体と脳から「我」を主張するエネルギーが寂滅することによって、世間に存在する様々な物事、草花や木、石などに始まって、無量の時間と無量の空間に拡大された観察力と認識力、 エネルギー感が生じます。これによって我(が)によって束縛されない、自在に動く抜群の行動力と創造力、実現力の確立に向かいます。

 諸の有結を盡くす

 まず「心善く解脱す」を邪魔する諸々の有結を盡くします。ここでの有結は、恚念・害念を生じ苦のもとになる有結だけでなく、脳が未来の行動を作り出す、有結に基づく記憶が含まれています 。
 諸々の有結を盡くす作業は、己利を逮得すると生じる「捨の平等恵施」と「常熾然施」のエネルギーを向けて為します。また有結の記憶から未来の行動を求め作り出す脳の仕組みも知らなければなりません 。
この脳の仕組みも離れるべき重擔のひとつと見ることが出来ます。

 次に「正智にして」という。何を正智するのか。「心善く解脱す」を正智します。

 「心善く解脱す」

 正智によって、「心善く解脱す」と記された脳の状態を作り出し観察します。ここでの「心」は脳のことを示しています。
「心善く解脱す」は、苦や憂(うれい)が寂滅しているだけではなく、我(が)によって未来の行動を模索する脳の動きも寂滅しています。
 この「我」の主張が全くなくなった状態から、物事や人、神仏の魂の動きを知り認識する脳と心の働きが生じてきます。 念力や祈念から生じる力とは質の違う神通ともいうべき、我(が)を離れて自在に拡大された時間と空間から得られる、慈愛にあふれたエネルギーと観察力、認識力、そして実現力が生じます。
 このように役に立つ力が満ちていても、なおかつ心は寂滅し「捨の平等恵施」を成就しています。寂静であっても役に立つ慈愛の力が満ちています。力が満ちた状態でも迷いなどの行(ぎょう)が生じることはありません。
 本ホームページの難提経にある「捨の平等恵施」と「常熾然施」が確立しており、我(が)の束縛を離れた如意足に向かいます。

 貪欲心・恚痴心に於いて解脱を楽(ねが)わず

 「心善く解脱す」では、雑阿含経止息経に「貪欲心・恚痴心に於いて解脱を楽(ねが)わず 」と説かれている四つの止息(勝止息、奇特止息、上止息、無上止息)を求めます。 貪欲心・恚痴心とは貪瞋痴と同じではありません。このことについては、本ホームページ「涅槃を得るには」の中で詳説しています。貪欲心は動物の欲の心、すなわち「自分は偉いのだ」と願う欲の心を貪り、恚痴心は恚念と害念から生じる心です。止息経については「仏陀に学脳と心」第五巻 止息経の項をご参照下さい。
止息すると、脳と心が穏やかで安らかになって、迷いや悩みなどが寂滅します。
この四つの止息は何を示しているのでしょうか。
ここまで取り組んできたのは、欲念・恚念・害念を滅して無欲念・無恚念・無害念となし、心を寂滅に向かわせることでした。しかし、ここではこれに加えてさらなる脳の止息を求めます。
もちろん恚念・害念があると恚念・害念から生じるストレスによって脳は止息するどころではありません。また心に少しでも欲念すなわち「私は正しい」「私は偉い」「私は偉く見られたい」との思いがあると、これから生じるストレスによって脳は止息できないでいます。

 欲念・恚念・害念の止息が完成した後にある、さらなる脳の止息とは何か。欲念・恚念・害念の止息が完成して表面意識に迷いや悩みがなくなっていても、まだ動いている部分があるというのです。

 「これからの行動」を模索しようと過去の記憶が浮かび上がって動くのです。 過去の記憶が動いても、ここでは三事和合が起きることはなく、欲心・恚心・害心が動き出すこともありません。 でも、過去の厳しかった記憶が脳の奥底で浮かび上がってきてしまうのです。夢や死の直前で動くものと同じであるかも知れません。
現世の記憶、過去世の記憶、動物の欲の無明が動いている記憶、掉慢無明が動いている記憶、これらの記憶が脳内で動いて、完全に止息した状態になれないのです。

 記憶が浮かび上がってくるのを止息させて、脳を完全に穏やかで安らかな状態にするのです。それには脳と心の奥深くにある我(が)の執着を滅尽しなくてはなりません。ここから「寂滅の所作を知れば神通を開発する」と説かれた、自在にものごとを知る如意足の世界へ向かいます。
 この止息に向かうには、「捨の平等恵施」と「常熾然施」が役に立ちますがそれだけではありません。

 脳波の周波数を下げる

 穏やかで安らかであるとは何か。
現代の言葉でいうと脳波の周波数が低くなって穏やかになっているのです。
ここに仏陀の解脱法の最大の極意があります。
 また、脳波の周波数が低くなり、過去の記憶の動きが止息するに随って、解脱が次の段階に進んだ証拠と見なされる形が表れてきます。
形が表れ、さらに飛躍した心の状態が生じてゆくのです。
ここに「我」を主張する全てのエネルギーを離れて、無量の時間と無量の空間を観察認識し、抜群の慈愛のエネルギーによって自在にものごとを成就してゆく阿羅漢倶解脱の世界があります。

 「心善く解脱す」を実現する手法はあるのでしょうか。

 古代神法、ヨガ、座禅、虚空蔵聞持法などに共通する感触を見いだすことが出来ます。この感触を、解脱を為している先達から正しく伝え聞いて実践したいものです。

佛此の經を説き已り給ひしに、諸の比丘、佛の説かせ給ふ所を聞きて歡喜し奉行しき。
雑阿含経 一二七八〇 六内處経より

まとめ

 この経典によって、いつも私達が取り組もうとしている、悪い心癖を直す修行は「向須陀洹」の作業であることが分かりました。
 阿羅漢への道はここから始まります。
 阿羅漢倶解脱の項に解説された「心善く解脱す」には、須陀洹に向かっているときであっても取り組み始めることが出来ると、私は感じています。

参考

「家家」 悪不善の脳と心を一つ一つ寂滅させ、寂滅を実感することが出来る。
「斯陀含」三結断じ欲貪・瞋恚薄らぐ。
「一種子道」 不放逸を為す。
「信解脱」もはや信の力を使わず智慧の力によって寂滅に向かう。

       解脱へ向かう 終わり

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