涅槃を得るには ひの出版室 

 

涅槃(ニルバーナ)を得るには
中阿含経 念経より

 平成24年11月1日 阿山恭久 記す(平成30年7月12日 改訂F)


 涅槃(ニルバーナ)とは何か。あえて一言で記すと、「命終時に脳が思い浮かべる、全ての愛(タンハー)への執着や愛(タンハー)が満たされなかった苦の記憶が消されていて動かなくなっています。脳は空っぽで寂静になっています。命終時に行われる脳をクリアする作業が終わっているのです。そのまま涅槃(ニルバーナ)の状態で生き続け、そのまま次の世界へ向かいます」。

 涅槃(ニルバーナ)は寂滅しているだけではありません。大きな強いエネルギー感をそなえています。

涅槃寂静から生じる直感力、認識力、判断力、抜群の行動力などが動き出しています。

 涅槃(ニルバーナ)をイメージして頂いたので本論に入ります。

  中阿含経 念経では「無害念の人は涅槃(ニルバーナ)に向かう」 と説いています。
 害念とは何か。  人を責め、人を傷つけ、不満を言い、嫉妬し、慢心し、威張り、自分は正しいと主張し、自分を偉く見せようとして、自分や周囲のエネルギーを削ってしまうのです。
 これらの心が無いことを無害念といいます。

  害念は欲念すなわち「我(が)」によって自分の偉さを保つために生じます。(欲念と「我(が)」については「欲念」の解説の所で詳述します。)
 念経の結論は、無欲念になれば無害念であり、無欲念・無害念こそ涅槃(ニルバーナ)へ向う道であると いうものです。

 この経典には涅槃(ニルバーナの覚り)へ向う道が説かれているのです。

(タイトル以外の太字の部分は 国訳一切経印度撰述の部阿含の部 大東出版社 から引用しています)

欲念・恚念・害念と無欲念・無恚念・ 無害念

中阿含経 念経より

是の如く我聞きぬ。一時佛、舍衞國在勝林給孤獨園に遊び給ひぬ。爾の時世尊諸比丘に告げ給はく。
我、本未だ無上正盡覺を覺らざりし時、是の如き念を作しぬ。
我寧ろ諸の念を分かちて二分と作し、欲念・恚念・害念を一分と作し、無欲念・無恚念・ 無害念を復た一分とすべし。
我後時に於てすなわち諸の念を別ちて 二分と作し、欲念・恚念・害念を一分とし、無欲念・無恚念・ 無害念を復た一分と作す。

この様に聞きました。あるときお釈迦様は舍衞國に在る勝林給孤獨園に滞在しておられました。そのときお釈迦様は諸々の修行者にお話になりました。
私(お釈迦様)は、昔まだ無上正盡覺の覚りに至っていないとき、このように観察しました。
諸々の念は、二つの種類に分けることが出来ます。 欲念・恚念・害念を一つの分類とし、無欲念・無恚念・ 無害念をもう一つの分類とするのです。

 念とは心が向いている方向です。こうありたい、こうなりたいという、成就したい思い、願いです。
 欲念・恚念・害念は、大乗仏教が言ういわゆる貪・瞋・痴と見てしまいがちですが、釈迦仏教の欲念・恚念・害念と大乗仏教の貪・瞋・痴は、かなり概念が違うのです。

欲念

 欲念とは何か。人が原生動物から魚、爬虫類、哺乳類、猿の時代を経て人間に至る進化の過程で、脳と心に自分と子孫を必ず護ろうとする強い仕組みがプログラムされ形成されました。このプログラムから生じる心の動きが欲念です。

 この欲をお釈迦様は「無明」と名づけておられます。智慧の働く余地がなく無条件に動いてしまうというのです。全ての脳と心の動きは「無明」から生じてきます。「縁起の法」12因縁の出発点の無明がこれです。
 「無明」の一番端的な表れは、進歩の最後の段階である猿の時代の心で、「自分は偉い」「自分は正しい」と主張します。自分の偉さを周囲に示そうとするのです。 この自分の偉さ、正しさを主張する脳と心を「我(が)」と呼んでいます。「我(が)」すなわち欲念をなくすことが解脱の出発点であり、また最終目標でもあります。
 欲念からは、 「働き惜しみをする」「人の働きを貪る」「怠ける」などの心の動きも出てきますが、全て自分が偉いことを示そうとしているのです。
 形があるものにも、形が無いものにも貪(むさぼ)りを起し、自分だけが得をし、周りの人には得をさせないように動きます。このことは自分の偉さを見せるために必要なことなのです。

恚念 

 恚念はいわゆる怒りの心です。欲念すなわち、動物の欲の思いを成就するのに障害になることがあると、瞋(いかり)を生じるのです。瞋(いかり)によって欲念を成就しようとします。 瞋りを心にためると、恚(いかり)すなわち恨みの心となって人の不幸を求めます。

害念

 害念は、欲念を満たす、すばわち自分の偉さを確保するために、周囲を克害してエネルギーを削ごうと心を動かすのです。
 不満を言い、人を責め、人を傷つけ、嫉妬し、慢心し、威張り、自分は正しいと主張し、自分を偉く見せようとし、人を馬鹿にします。
 欲念・恚念・害念すなわち無条件に動き出す「動物の欲の心」を離れると、無欲念・無恚念・ 無害念によって行動するようになります。

欲念・恚念・害念が不善と分って修行していても、欲念が生じる

我是の如く行じて遠離獨住に在り、心放逸無く修行精勤するも、欲念を生ず。
我即ち欲念を生ずるを覺り、自から害し他を害し二倶に害し慧を滅し多く煩勞して涅槃を得ず。
自から害し他を害し二倶に害し、慧を滅し、多く煩勞し 涅槃を得ずと覺りてすなわち速かに滅す。

私(お釈迦様)はこのように無欲念・無恚念・ 無害念を行じて、心を見つめ、一人静かに無放逸に住し、修行し努力していましたが、それでも欲念を生じてしまいました。
私(お釈迦様)はすぐに「自分は偉い」とする欲念(動物の欲の無明)が生じたのに気がつきましたが、この欲念があると、自からを害し他人も害し自他ともに害して、慈愛のエネルギー「慧」が滅し、心がいたずらに煩勞するだけで、涅槃を得られません。
自からを害し他も害し自他ともに害していては、慈愛のエネルギー「慧」が滅してしまい、いたずらに煩勞して涅槃を得られないと覚って、すぐにこの欲念を滅したのです。

復た恚念・害念を生ず。我即ち恚念・害念を生ずるを覺りて、自から害し他を害し二倶に害して、慧を滅し多く煩勞して涅槃を得ず。
自から害し他を害し二倶に害して慧を滅し、多く煩勞して涅槃を得ずと覺りてすなわち速やかに滅す。

また欲念によって恚念・害念が生じていると、慈愛のエネルギー「慧」を滅し、多く煩勞するだけで涅槃を得ることが出来ないと覚って、すぐに速やかに恚念・害念を滅しました。

 熱心に無欲念・無恚念・ 無害念の修行を為していても、欲念(動物の欲の無明)が生じてしまいます。すなわち、「修行する私は偉いのだ」という思いが浮かび上がってきてしまうのです。欲念が生じると、自からを害し他を害し二倶に害して慈愛のエネルギー「慧」を滅し、多く煩勞するだけで涅槃を得ることが出来ません。欲念・恚念・害念が涅槃に向かう妨げになることに気がついたら、速やかに欲念を滅し恚念・害念を滅するのです。

無量の悪い心癖を生じないように欲念・恚念・害念をなくす

我欲念を生ずるも受けず斷除し吐し、 恚念・害念を生ずるも受けずして斷除し吐すべし。
所以は何ん。我此れに因るが故に必ず無量の惡不善の法の生ずるを見る。

私(お釈迦様)は、たとえ欲念(「私は偉いのだ」という思い)が生じても、この念によって色受陰が動き出して脳と心が転変しないようにし、この念を断じ除いて、吐き盡くすようにしたのです。
恚念・害念も同じ様に、色受陰が動き出さないようにし、恚念・害念を断じ除いて、吐き盡くしました。
どうしてかというと、この欲念・恚念・害念があると必ず無量の悪い心癖が生じてしまうからです。私(お釈迦様)にはこのことが見えているのです。

猶ほ、春後の月の如し

猶ほ、春後の月の如し。田に種うるを以ての故に、放牧地は則ち廣からず。
牧牛兒牛を野澤に放てば牛他の田に入る。牧牛兒即ち杖を執りて往くてを遮ぎる。
所以は何ん。牧牛兒此れに因るが故に必ず當に罵あり打縛あり過失あるを知るなり。是れ故に牧牛兒杖を執りて往くてを遮ぎる。

ちょうど春後の季節のようなものです。
田には種がまいてあって、放牧地は広くないのです。
牧牛を世話している児が、牛をこの野の水辺に放つと、牛が他の人の田に入ってしまいます。
牧牛兒はすぐに杖を執って牛の行く手を遮ります。どうしてかというと、牧牛兒は牛が他の人の田に入ると必ず叱られ打ちたたかれる失敗になるのを知っているからです。

欲念・恚念・害念は無量の惡不善の法を生ずる

我れ亦た是の如し。欲念を生じて受けず斷除し吐し、恚念害念を生じて受けず斷除し吐す。
所以は何ん。我此れに因るが故に必ず無量の惡不善の法を生ずるを見る。

私(お釈迦様)も牧牛兒と同じ様なものです。 少しでも欲念を生じて恚念害念を生じると叱られてしまうので、すぐに欲念を離れるようにしているのです。
たとえ欲念が生じても、この念が世間に反応して三事和合を起こし色受陰として動き出すことがないようにし、断じ除いて、吐き盡くすのです。
恚念・害念も同じ様にこの念が色受陰として動き出すことがないようにし、断じ除いて、吐き盡くします。
どうしてかというと、私(お釈迦様)には、これ(欲念・恚念・害念)によって必ず無量の悪い心癖が生じてくるのが見えているからです。

苦を離れられない

比丘は所思に隨ひ所念に隨ひ心すなわち中に樂う。
若し比丘多く欲念を念ずれば則ち無欲念を捨て 多く欲念を念ずるを以ての故に心すなわち中に樂う。
若し比丘多く恚念害念を念ずれば、則ち無恚念無害念を捨て、多く恚念害念を念ずるを以ての故に心すなわち中に樂う。
是の如く比丘、欲念を離れず恚念を離れず害念を離れざれば、則ち生老病死愁憂啼哭を脱する能わざるなり。
亦た復た一切の苦を離れること能わざるなり。

修行者は、自分の思う所のままに隨い、念ずる所のままに随っていると、この思いと念ずる所の中に楽(ねが)うことが生じてきます。
もし人が多く欲念を念ずるなら、無欲念を捨てて多く欲念を念じているので、心は「自分を偉くみせよう」とする動物の欲の心によって楽(ねが)いを生じているのです。 恚念・害念についても同じように言えます。
このように修行者よ、欲念を離れず、恚念を離れず、害念を離れなければ、その人の楽(ねが)いは「自分を偉くみせよう」とするものになり、この楽(ねが)いのために生老病死愁憂啼哭を脱することができません。
また一切の苦を離れることもできません。

 欲念恚念害念に随っていると、願うことが欲念恚念害念のなかにあり、この願いから全ての苦しみが生じ、苦しみから離れることが出来ません。 阿含経で説かれている苦しみの代表「生老病死愁憂啼哭」から脱することが出来ないのです。 

無欲念・無恚念・無害念を生じて涅槃を得

我れ是の如く行じて遠離獨住に在りて、心放逸無く修行精勤して無欲念を生ず。 我れ即ち無欲念を生ずるを覺り、自から害せず他を害せず、亦た倶に害せず、慧を修し煩勞せずして而も涅槃を得。自から害せず他を害せず倶に害せずして、慧を修し煩勞せずして而も涅槃を得、すなわち速かに修習し廣布す。
復た無恚念無害念を生ずれば、我れ即ち無恚念無害念が生ずるを覺り、自から害せず他を害せず、亦た倶に害せず、慧を修し煩勞せずして而も涅槃を得。
自から害せず 他を害せず倶に害せずと覚り、慧を修し煩勞せずして而も涅槃を得、すなわち速かに修習し廣布しぬ。

私(お釈迦様)は、このように行じて、遠離獨住に在し無放逸に住して心を集中し努力し、無欲念を生じることができました。
私(お釈迦様)はすぐに無欲念が生じたのに気がついて、無欲念によれば、自からを害せず、他人も害せず、自他ともに害することがなく、慈愛のエネルギー「慧」を修することができ、どのように為せば涅槃に向うかと煩勞することもなく、しかも涅槃を得ることが出来ました。 無恚念・無害念が生じたときも、同じ様に慈愛のエネルギー「慧」を修して、いたずらに煩勞することなく涅槃を得たのです。
このように自からを害せず、他人も害せず、自他ともに害さなければ、慈愛のエネルギー「慧」を修し、いたずらに脳と心が煩勞することなく、しかも涅槃を得るのです。
このように速かに修習し、この方法を廣め伝えたのです。

 無欲念を生ずれば、すなわち「私は偉い」と思う心がなくなり、害心がなくなって、煩勞しないで而も涅槃を得るのだという。涅槃に向かう確実な道がここに示されています。

まとめ

 無欲念は無恚念・無害念を生じます。すわち、欲念、自分を偉く見せようとする「我(が)」がなくなれば、無恚念・無害念となって涅槃に向かいます。

 無欲念を成就して、無害念「自からを害せず、他人も害せず、自他ともに害せず」を修していれば、煩勞せずして涅槃を得るという。
煩わしくあれこれ格闘し苦労しなくても涅槃を得ることが出来るのです。

 涅槃への道は、無欲念であり無害念であることです。

 涅槃への道は、「私は偉い」、「私は正しい」と主張する、いわる「我(が)」を無くすことから始まります。人を責め不満を言い嫉妬するなど、害心は「我(が)」がなくなれば、ひとりでに無くなります。 ここにニルバーナに向かう実践の道があります。 

 涅槃が身近なものと知る素晴らしいメッセージであると思われませんか。

 注 この経典には「慧」というフレーズが出てきますが、「慧」については本ホームページ あふれるような慈愛のエネルギ をご参照下さい。

         涅槃を得るには おわり

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