道を知る 

ひの出版室 阿山恭久記す 

 「道を知る」は 、著者が受け止めた珠玉のメッセージをお伝えしています。 私も、日々この頁に目を通して忘れないようにしています。

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平成30年10月17日

大光明

 お釈迦様、ナザレのイエス、ヤハウェ、第二の仏陀、八幡大神、日本の神々、解脱に向かう修行者、衆生やあらゆる霊魂の心の中にある「あふれるような慈愛のエネルギー」、

これが大光明です。

 私達、一人一人からも大光明が照耀しています。一人一人が持っている大光明の照耀を強くしてゆくこと、これが求められている修行です。

 50年前から私達は、このことを教わり、唱えてきました。

 最近になって、私はやっとこれを理解し、ここに修行の目標があったことを知り、この実践に心を向けるようになりました。

 大光明が何であるかをよく理解し、自分の脳と心から大光明を照耀することに大きなエネルギーを向ける様にしなければと自戒しております。

 

平成30年9月1日(10月21日改訂)

阿羅漢になる

 阿羅漢への心はどのように生じるのでしょうか。

 辛かった記憶、苦しかった記憶、愛(タンハー)が満たされなかった記憶、これら記憶を順に思いだし寂滅して動かなくします。全て動かなければ涅槃寂静に入ることが出来ます。

 般若心経や観音経を工夫して読み上げてこれを実現します。
 涅槃寂静になってしばらくすると、脳にエネルギー感が生じてきます。
 涅槃寂静から生じる直感力、認識力、判断力、抜群の行動力などが動き出します。阿羅漢のエネルギーです。大きな強いエネルギーです。
 沢山の霊魂が阿羅漢に触れて、歓喜の解脱に向かいます。

 阿羅漢に向かっている人を克害すると無間地獄に堕ちると説かれています。阿羅漢に向かっている人を、知らずに克害してしまった人は、回復に工夫が必要です。

 

平成30年8月30日(10月18日改訂)

涅槃寂静

命終する直前に脳は全てを思い出して自らをクリアし 涅槃寂静になります。 寂静になると強いエネルギー感と実践力をを持ちます。ただ、この作業は余りに辛く苦しいので、多くの人は途中でやめて輪廻転生してしまいます。生きている間の徳が薄いと余りに苦しいのです。

 辛かった記憶や苦しかった記憶を順に思い出し、思い出した記憶は消滅して寂静に向かいます。毎日、般若心経と観音経を心を注意深く向けて読み上げていると消滅に向かうことができます。すべてが消滅すれば涅槃寂静に向かいます。

 これが目的地です。

 命終時の脳を生きたまま獲得することができるのでしょうか。 殆どの人は生きたまま獲得するのは難しいと思うでしょう。でも三年後には様々な宗教がこれを取り入れて解脱の成就に向かうことになると思います。涅槃寂静への成り立ちを誰かが言い出せばすぐに分かるからです。

 これが目的地なのです。

 

平成30年8月23日

今日は昨日と違う人生が動いている

  いつもそうありたいですね。

 

平成30年7月4日

脳は記憶している

 全ての行動を脳は細かく記憶しています。
命終のときに、この記憶が全てよみがえってきます。
この記憶のよみがえりは脳が自ら脳の中にある歪みを解消に行くのです。
歪みがなくなれば解脱の世界に向かいます。
徳の薄い生活をしていて記憶の質が悪いと、とても辛(つら)い長く感じる時間が流れます。
脳は命終を探してしまいます。
つらいまま転生すると輪廻の人生がやってきます。
脳が変化してなおかつ生きていればエネルギー感にあふれた阿羅漢に向かいます。 

 

平成30年8月1日(8月23日改訂)

般若心経と観音経

 般若心経と観音経は脳をクリアする作業をするのに効果的な経典です。

 大乗仏教の経典ですが、天才的なひらめきによって生み出された宝物であると思います。

 脳の中の辛(つら)い記憶をクリアする力があります。どの様に読み上げれば良いのでしょう。 お会いしたときにお話ししましょう。

 

平成30年6月25日

須陀洹を知る

 須陀洹とは

 まず、自分が生まれてくる原因になった「渇愛(タンハー)」の存在に気が付き、自分の渇愛(タンハー)がどのようなものか知ることから始まります。
つぎに渇愛(タンハー)が動きそうになったら、これを観察し、動きが拡大しないように制御します。 
また、身見・疑惑・戒取を正しく知って、「身見・疑惑・戒取がなくなれば、なるほど欲念がなくなり、恚念・害念を生じなくなる」と、理解しなければなりません。

 

平成30年4月23日

解脱しましたか

と質問される方がいらっしゃいます。
解脱とは何ですか、と聞き返したくなります。
漠然としたものではなく具体的で明快なテーマがあると思うのです。
偉そうにしなくなった、怒らなくなった、人を責めなくなった、嫉妬しなくなった、この辺から始まるのでしょう。

 

平成30年3月22日

如意足

 如意足は我(が)が無くなると成就する究極の解脱の成果です。

「如意足と根力」のページをご参照下さい。

 

平成30年1月20日

我(が)を無くす

 素直になって、柔軟になって、「猿の時代の心」を離れます。「自分は正しい」「自分は偉い」と主張して我が身の偉さを見せて歩く、これがなくなれば、須陀洹に向かいます。
 「捨の平等惠施」を楽(ねが)い、「我(が)」をなくして、神仏の御心と力を脳と心に受けとめます。


 解脱の真言はこのことを実現します。

 

平成30年1月20日

あふれるような慈愛のエネルギーを身につける

 神仏に親愛に満ちた喜びと慈愛の心を供養すれば、供養に応じて神仏が送って下さる奇跡の「慈愛のバイブレーション」を受けとることができます。
 あふれるような慈愛のエネルギー「常熾然施」を身につけて、世の中に働きを為します。 


 解脱の真言はこのことを実現します。

 

平成30年2月4日(改訂3月6日)

四念処観と七覚支

 四念処観は、瞑想や勤行、梵行などその時だけの修行ではなく、一日中、24時間ずっと、心に留めて生活します。すると、ひとりでに境涯が上がるのです。すごいですね。 
 本ホームページ「四念処観と七覚支」に未熟ながら解説を試みています。ゆっくりと、四念処観が浮かぶようにお読み下さい。
 分からないと諦めずに、どんどん質問して下さい。

 毎日「念処・精勤・如意足・根・力・覚・道」を修習しないと解脱しないことを経典で読み上げている人は、皆で語り合って学ぶように心がけたいものです。

 四念処観の四つの段階「身・受・心・法」は聖者の四段階に対応しています。須陀洹になるには「身」の段階を成就すればよいのです。
すなわち、「欲念(自分を偉く見せようとする心)を観察し、欲念を離れる」これが須陀洹に向かう道です。でも「自ら世の事を行じ(積極的であること)」を忘れないようにしましょう。( 歓喜を生ず 雑阿含経難提経参照)

 

 

平成29年11月15日(12月9日改訂)

身見 

 心を変える作業は身見を正しく知ることから始まります。
 私達の脳の中の身見のイメージは正しいでしょうか。
 心は身見によって縛られており、身見を離れるのが心を変える条件であり、身見を離れると心が変わり出します。

 身見は縁起の法の先頭にある「無明」から生じます。動物の進化の過程で蓄積された「動物の行動原理」の表れです。智慧で制御する余地が無く無条件に動いてしまいます。
 すなわち身見は欲念によって生じ我見(がけん)となって表れます。

 身見の一番強いものは「猿の時代の心」です。
 身見があると、「自分は偉いのだ」とつぶやき、想(おも)い、「偉く見せよう」と言葉を発し続けます。
 長く修行を重ねていても、自分がこのようになっていると気がつく機会はなかなかありません。本人は気が付かなくても、周りの人にはすぐに分かってしまいます。
 日々の行動は、身見を離れ、人を責めることがなく、慈愛にあふれたものになっているでしょうか。
 身見を離れて、はじめて須陀洹への道が開けてきます。

平成29年11月16日(改訂11月17日)

戒取

 私達の頭の中にある「戒取」は「お釈迦様の方法でないやり方で悪い心癖を無くそうとする」というものでしょう。
 お釈迦様の方法はどのようなものでしょうか。
 「貪瞋痴などの悪い心癖を、直接強引に消そうと執着しても消えません。貪瞋痴を生じる脳と心の仕組みを離れるのです」と説かれています。
 貪瞋痴は我(が)によって生じます。すなわち自分の偉さを保とうと生じるのです。
 貪瞋痴をなくすには我(が)を離れます。
 「欲念」をなくして「無欲念」になります。
 戒取を離れれば、恚念・害念の滅尽に向かい、須陀洹に向かいます。


平成29年8月20日(改訂9月1日)

解脱の実感

 いくら解脱の道について智慧と理論を学ぼうとも、いくら自分の修行を誇ろうとも、解脱の実感がなければしょうがないと思いませんか。

 須陀洹から斯陀含、阿那含、阿羅漢と境涯が上がってゆくに随い、それぞれ、はっきりした実感があるのです。どんな実感か。
 お釈迦様の解脱への道を学んでいると見えてくるものがあります。それによって自分がいる境涯が、自分ではっきり分かるのです。

 ここから記述されている、進歩の実感 、須陀洹の実感、斯陀含の実感、阿那含の実感、阿羅漢になったら、の項目を私はいつも読み返しています。

平成29年9月1日

進歩の実感

 解脱に向かっている人は、常に、解脱への階梯を登っている自分を見、知り、進歩している自分を実感していなければなりません。
 進歩をするときには、その陰に辛い思いがあるものです。
 人からいじめられるなど、辛い思いがあるときは、必ず大きな進歩がついてきます。
 解脱に向かっている人が辛い思いを辛く感じないのはこのためです。

平成29年8月21日

須陀洹の実感

 須陀洹になると実感が三つあります。

① まず欲念を離れて、恚念・害念がなくなっています。
 欲念すなわち我(が)がほとんどなくなって、自分は偉いと思わなくなり、自分が正しいと主張しないことに気がつきます。恚念・害念がなくなって、怒ったり、不満を言ったり、人を責めたり、嫉妬したり、威張ったり、馬鹿にしたりしなくなっています。( まだ恚念・害念を離れていない人は、この文章が自分を責めていると感じて恚念・害念を起こしてしまうかも知れません。)
② 表面意識に愛(タンハー)への執着が表れて、心が転変して「憂悲悩苦」を生じそうになると、すぐに気がついて観察し、動きを止めます。
③ 苦を離れた「喜びと楽」の中で生活しています。

 須陀洹に向かう道は、阿山恭久著「仏陀に学ぶ脳と心 第一巻 聖者への梯」に詳説しています。

平成29年8月22日

斯陀含の実感

 欲念・恚念・害念はすでになくなっています。さらに表面意識で愛(タンハー)が動くことがなくなり、悩みや苦しみが生じません。 穏やかな表面意識の定から生じる、「喜びと楽」の中で生活しています。

 斯陀含に向かうには、お釈迦様が説かれた「心の仕組み」についての智慧を身につけるのが近道です。

平成29年8月23日

阿那含の実感

 斯陀含は表面意識が寂滅していて、悪い心癖も、悩みや苦しみもありません。しかし潜在意識に愛(タンハー)が残っていて、この愛(タンハー)からストレス感が漏れてきます。
 この、世の中と関わりなく表面意識に上がってくるわずかなストレス感は、「憂苦・悔恨・埋没・障礙」であると、説かれています。
 阿那含になるとこの前世のストレス感が消えます。
 前世のストレス感が消えたなと実感する、これが阿那含になった証拠です。

平成29年8月24日(改訂12月31日)

阿羅漢になったら

 阿羅漢になると、

① 自分が生まれてくる原因になった、過去世の記憶と抑圧が消えているように感じます。
 人は未来を構築するとき、過去の記憶を使います。
 阿羅漢は、このときに、今生を含めて過去のつらい記憶が脳の奥底で動くことがありません。過去のつらい記憶が動かなくなっているのです。
② いつも、脳と心が、つぶやきのない寂滅した状態にあり、あふれるような慈愛のエネルギーを念じています。

 この「あふれるような強い慈愛のエネルギー」が周囲を変え、世の中を変えてゆく強い力となっているのです。

③ 阿羅漢になると、周囲にある草花や木、石などに宿り、また周囲の霊魂や神仏の魂のバイブレーションと力が、自分の脳と心に入ってくるようになります。これらの情報は五感を経由しないで直接脳に入って来るのです。
 未来の情景も入ってきます。未来の情景が望ましくないものであると、脳と身体が反応して壊れてしまうことがあります。我(が)が動かない不動の心を確立して、静かに受け止めるようにする、これが阿羅漢の修行です。修行が進めば、脳の奥底にある我(が)がほとんどなくなって、我(が)から離れて穏やかに過ごすことが出来るようになります。

平成29年8月10日(改訂11月2日)

解脱の空間

 解脱した人の生活空間はどのようなものでしょうか。

 世間で為すべきことを直感的に受け止めて、抜群の行動力と実践力で成し遂げています。為すべきことを抜群の創造力で為していますが、こうあらねばならぬという主張から離れていて、あるがままに世間を受け止めています。このあるがままの世間に対して、常にあふれるような慈愛のエネルギーを向けています。この慈愛のエネルギーが世間を変えてゆくのです。
 脳と心は慈愛のエネルギーで満ちあふれており、 つぶやきのない寂静の時間と空間を楽しむことができます。

平成29年7月9日(改訂30年3月6日)

柔軟にして善く住し不動心を得

 我(が)がなければ、周囲にある草花や木、石などに宿り、また周囲の霊魂や神仏の魂のバイブレーションと力が、自分の脳と心に入ってくるようになります。これらの情報は五感を経由しないで直接脳に入って来るのです。

 黄蘆園経などに説かれている、「柔軟にして善く住し不動心を得 (霊性顕現に向かう最終段階)」を実践出来るようになっているのです。  
 「不動心を得ている」、すなわち脳に入ってきた情報がどんなものであっても、心が動揺しなくなっている。もし自分の主張である我(が)が動くと、脳に入ってきた情報と我(が)が脳の奥深くで衝突して、身体がこわれてしまうことがあります。
 この情報は普通は表面意識に浮かび上がってこないので、わずかでも我(が)があって脳の奥で反発すると、苦のエネルギーが生じてしまうのです。
 ここまでやってきていてもまだ我(が)の存在を感じてしまいます。

 苦となる情報は潜在意識に留めないで、表面意識で把握している方が良いのです。

 この様なとき、すなわち身体が壊れそうなバイブレーションがやって来たときには、「あふれるような慈愛のエネルギー」を送り返して「捨の平等恵施」を楽(ねが)うようにします。

平成28年9月30日(平成29年11月1 2日 改訂)

阿羅漢への道

阿羅漢に至る道を箇条書きにします。

① 正しい梵行によって徳を高めます。

・ 自分の為に「行う」梵行は「邪梵行」と名づけられています。
・ 「正梵行」 によって解脱の道を歩む徳が生じます。

・  解脱の道を歩めば解脱します。

 徳とは何か。どのくらいの強さと大きさの「慈愛のエネルギー」を身につけているか。これが徳であると思いませんか。 

・ お釈迦様の解脱法への信を確立します。

② 欲念すなわち動物の欲の無明から離れます。

「私は偉い、私は正しい、偉く見せたい」と主張する心を滅します。すなわち、「我(が)」をなくし、動物の欲の無明から離れます。
・ どのように滅すればよいか。お釈迦様の最も優れた解脱法である「自然の神力(じねんのじんりき)」を使います。
・ 四念処観の出発点「内身を観じて内身の如く」は「自然の神力(じねんのじんりき)」を動かす情報を蓄積します。

③ 欲念を離れて無欲念になれば、恚念・害念が滅します。
 自分の偉さが認められないときに生じる恚りはなくなり、自分の偉さを高めようと周囲のエネルギーを削ぐ害念は滅します。

・ 四念処観「身は不浄なり」を実践します。
 自分の偉さを主張する心を滅します。
・ 欲念から離れ、恚念・害念が消えれば須陀洹です。

④ 愛(タンハー) が表面意識で動かなくなります。  

・ 四念処観「受は苦なり」を実践します。
・ 愛(タンハー)が表面意識で動かなくなれば斯陀含です。

 愛(タンハー)とは前世で満たされなかった思いです。この愛(タンハー)によって輪廻転生してきたのです

⑤ 潜在意識にある愛(タンハー)を滅尽します。

・ 四念処観「心は無常なり」を実践します。 
・ 潜在意識にある愛(タンハー)が滅尽して前世のストレス感が表面意識に漏れてこなくなれば阿那含です。

⑥ 己利を逮得します。

・ 四念処観「法は無我なり」を実践します。
・ 「掉慢無明」が捨離されます。
・ つぶやきのない静かな時間を過ごすことができるようになります。
・ 五種の施が身について、己利を逮得します。
・ 己利を逮得すれば阿羅漢です。

⑦ 善解脱を成就します。 

・ 脳の奥深くでも、過去のつらい記憶が動くことがありません。
まだ動いているのを感じるときは、自然の神力(じねんのじんりき)を静かに使って寂滅を求めます。
・ 善解脱が成就すれば阿羅漢倶解脱です。 


平成29年8月7日(改訂11月17日)

欲念を離れる

 欲念の欲は kãma であり「神の意志による根源的な欲」であるという。
桐山靖雄師の御著書「輪廻転生瞑想法」には、解脱を為すのは「地球の引力」にさからって生きるようなものであると記されています。
動物である私達が欲念を離れるのは「地球の引力」にさからって生きるようにむずかしいのです。でも欲念を離れなければ須陀洹になれません。

 欲念はどのようにあらわれるのか。
私は偉いとつぶやき、思い、私は正しいと主張し、自分を偉く見せようとします。 脳と心に次々と現れ、言葉の端々にでてしまいます。

 欲念を離れると、自分を偉く見せる心の動きと行動はなくなります。迷いがなくなり、抜群の実践力によって行動します。

 解脱に向かうには、欲念を離れようと常に注意して過ごさねばなりません。 お釈迦様の最勝の智慧「自然の神力(じねんのじんりき)」を使って無欲念に向かいます。
難提経には、「捨の平等惠施」を楽(ねが)うことが説かれています。
身につけるのではなく、楽(ねが)うのだという。
ここに欲念を離れるこつがあるのでしょう。

 欲念を離れ、恚念・害念がなくなれば須陀洹です。

 

平成30年1月30日

善根の成仏法

 このホームページの解脱法は、上根の成仏法でも、下根の成仏法でもありません。
お釈迦様から善根の人の為に授かった「善根の成仏法(解脱法)」と呼ぶべきでしょう。

 善根の人とは、素直な人のことです。
素直な人だけが、この解脱法を理解し、実践して、成仏(解脱)することが出来ます。

 お釈迦様から授かった宝物です。

平成29年8月1日(改訂12月14日)

お釈迦様の道は宝物

 宝物に見えなければ自分のものにしようとは思わないでしょう?。
自分の修行を誇る気持ちがあると宝物が見つかりません。修行を誇る気持ちを捨てる、ーーーーーこれが実に難しい。
自分の修行は勝れていると思うと、宝物「道」を探すことがなく、宝物「道」は見つかりません。

 

 

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お釈迦様がお説きになった梵行 


お釈迦様は日常生活で一番大切な心の持ち方と行動について、修行者が必ず実践しなければならない「梵行」というあり方を説いて下さっています。この梵行のイメージも時代の変遷とともに変化して、本来の目指すところが分らなくなってしまったのではないかと思われます。
梵行とはお釈迦様の時代にはどんなイメージであったのでしょうか。
いくつかの阿含経のテキストを見て、お釈迦様の時代の梵行のイメージを探ってみましょう。


心解脱を得るために梵行を修す 


「 尊者阿難、何が故ぞ沙門瞿曇の所に於て出家し梵行を修せるや」と。
「 婆羅門、断ぜんが為の故なり」と。「何等かを断ずる」と。
答へて言はく「貪欲断じ、瞋恚・愚痴断ず」と。 

       雑阿含経 断貪経より 

 何のために梵行を修するのか、という質問に対して、貪欲断じ、瞋恚・愚痴を断ずるためであると答えています。梵行とは正に心解脱を成就するために修することが分ります。
何のために梵行を修するかを説いた阿含経のテキストはたくさん存在しています。
表現はそれぞれ違いますが、心解脱の成就を目的としていると解釈できるものが多いのです。


記憶の質が変わる梵行を修す 


色は眼に繋するに非ず、乃至法は意に繋するに非ざるを以ての故に、
世尊は人に梵行を建立せば苦邊を尽すことを得と教へたまへり。
雑阿含経11767 より


色と眼は直接に繋がっておらず、間に欲貪によって呼び出される記憶があり、色とこの記憶が照合されて一致すると脳の情報として取り込まれます。人はこの欲によって呼び出された記憶を縁に心を動かし行動します。それ故に梵行を建立すると苦を尽くすことが出来るのです。
梵行とは欲を離れて清らかな行動をすることであるからです。
全ての行動は過去の記憶によって制御されます。
善い行動を行い、善い運命に向うには、善い記憶の質が必要です。
欲を離れて行動した梵行の記憶は今までの記憶とは違ったものになります。
すなわち梵行によって記憶の質を変えることが出来るのです。
記憶の質が変われば行動が変わり、運命が変わり、幸せであるかどうかが変わります。
梵行は苦を尽くすために修するのです。
梵行は善い記憶が残るよう欲を離れた行動でなければなりません。
「梵行は徳を高めるために行う」とするのなら、「徳とは記憶の質によって決まる」とも言えます。


不邪淫戒を護る梵行

 
非梵行を離れ、非梵行を断じ、梵行を勤修し、妙行に精勤し、  十善戒 不邪淫戒より 

 此のテキストを見てある人は梵行とは邪淫をしないことであるという。
どうして邪淫を為さぬことが梵行になってしまったのでしょう。
心解脱行によって成就すべき一番のポイントは、動物の行動原理から脱出することでありました。動物の行動の目的は何であったでしょう。それは子孫の繁栄を第一とするものです。
動物の行動原理から出てくる最も強い心の動きは邪淫であるのでしょう。
これが邪淫を禁じる十善戒のテキストに梵行が登場する理由です。
梵行とは動物の行動原理から出てくる心の動きを為さないことであるからです。
お釈迦様の教団では邪淫をなせば直ちに破門になったのです。


阿羅漢の梵行 


梵行已に立ち

 梵行已に立ち、は阿羅漢の日常生活の基本です。
日常の心と行動が全て梵行であるのです。
これが出来るから阿羅漢であるといえる、阿羅漢の証明のようなテキストです。
すなわち、阿羅漢になったら梵行が身についていて全ての生活が梵行になっているのです。
阿羅漢は全ての行動を、動物の行動原理を離れた智慧の行動原理によって行っています。
すなわち梵行が生活そのものであり、新しい悪業を積むことがないのです。

 

梵行とは 
梵行は心解脱を成就するために行じ、
記憶の質を変えるために行じ、
業を償うために行じ、
新しい業を積まないために行じ、
そして阿羅漢になったら常住坐臥、梵行に住しているという。

 この阿羅漢の梵行、すなわち智慧の行動原理によって常に心が動いており行動が為されている、これがお釈迦様のお説きになった究極の梵行である。

 これがこのページの結論です。

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