歓喜を生ず
(信戒施を実践する)
雑阿含経12633 難提経より①
平成24年10月12日 阿山恭久 記す(改訂H..)
このページは多くの阿含経典の中で著者阿山恭久が最も大切な経典の一つであるとする「難提経」の前半部分を解説しています。
難提経には、優婆塞(在家の解脱に向かう修行者)が取り組むべき究極の解脱システムが説かれています。
霊性を高め解脱に向かうには、「五種の歓喜の處を修習する」ことから始めるのです。解脱への実践は歓喜を生じて成し遂げられてゆきます。
参照テーマ
「信行」、「法行、「忍を観察する」
当ホームページ「解脱に向かう」参照
「四念処観」による心の動かし方」
当ホームページ「四念処観と七覚支」参照
(タイトル以外の太字の部分は 国訳一切経印度撰述の部阿含の部 大東出版社 から引用しています)
雑阿含経12633 難提経より
それでは難提経の解説に入りましょう。
お釈迦様はある日、先達衆と一緒にしばらくの間、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を離れて説法の旅に出発されようとしていました。
ここに居合わせた難提優婆塞がお釈迦様に質問をしお留守の間の心構えを説いていただきます。
ここでお釈迦様がお説きになった五つの歓喜と五つの施は、解脱に向う実践方法の極意とも言えるものです。
難提優婆塞はお釈迦様の異母兄弟で、お釈迦様の弟子になる直前に印度で一番美しい女性を妻に迎えていたと伝えられています。
お釈迦様の弟子になった後もその妻が余りに美しいので忘れられず、在家のまま過ごし
これについてお釈迦様が様々にご指導される様子が伝えられています。
お釈迦様、説法の旅に出られる
是の如く我聞きぬ。一時佛舍衞國祇樹給孤獨園に住り給へり。
三月の前夏安居竟りて衆多の比丘有りて食堂に集まり、 佛の爲に衣を縫いぬ。
如來衣を作り竟りて久しからずして當に衣を著て鉢を持し精舍を出でて、人間に遊行せんとす。
時に釋氏難提、衆多の比丘食堂に集りて佛の爲に衣を縫い、如來久しからずして衣を作り竟りて衣を著鉢を持して人間を遊行せんと聞き、
釋氏難提聞き已りて、佛の所に來詣し稽首して禮足し、退きて一面に坐して佛に言して白さく。このように聞きました。あるときお釈迦様は舍衞國の祇園精舎に滞在しておられました。
三月の夏安居(げあんご)の前の季節が終わって、修行者達が食堂に集まって、お釈迦様の為に衣を縫っていました。
お釈迦様は衣が出来上がったら、時が経たないうちに、衣を著、鉢を持って精舍を出て、人々の中に説法の旅にでかけようとしておられました。
そのとき釋氏難提は、「修行者達が食堂に集って縫っている衣が出来あがったら、お釈迦様が衣を著、鉢を持って説法の旅に出られる」と聞いて、 お釈迦様の所にやってきて挨拶をかわして一面に坐り、お釈迦様に申し上げました。(夏安居 夏の間の100日間、雨期のときに修行者が一カ所に集まって寝泊まりし修行や勉学に励む)
お釈迦様や知識比丘がいなくなったら
世尊、我れ今四体支解け四方易韻し先に聞きし所の法に念悉く迷妄せり。衆多の比丘、食堂に集まり、世尊の為に衣を縫い、如来、久しからずして衣を作り竟らば衣を著け鉢を持ちて人間に遊行したまわんと言えるを聞けり。是の故に我れ今心、大苦を生ず。何れの時にか當に復た世尊及び諸の知識比丘を見たてまつる事を得べき』と。
『お釈迦様、私は今、身体の力が抜けて、どうにも動けなくなってしまいました。
先ほど話を聞き、どうしたらよいか分らなくなっているのです。
修行者達が食堂に集って衣を縫っており、衣が出来たらお釈迦様は衣を著、鉢を持って説法の旅に出られるとうかがったのです。
それで私は今、心がとても苦しくなっています。
いつになったらお釈迦様や知識比丘である先達に再びお会いできるのでしょうか』と。
五種の歓喜の心を習いなさい
佛、釋氏難提に告げたまわく、
『汝、佛を見るも、若しは佛を見ざるも、 若しは知識比丘を見るも、若しは見ざるも、汝當に時に随って五種の歓喜の處を修習すべし。お釈迦様は釋氏難提におっしゃいました、
『あなたは、佛を見ることができても、できなくなっていても、 また知識比丘の先達に会えるときも、 会えないときも、 あなたはいつでも五種の歓喜の處を修習するようにしなさい。(五種の歓喜の處 五種類の修行法。この修行を為すと心が歓喜で一杯になり、聖者の第一段階須陀洹に向う。)
五種とは佛・法・僧・戒・世です
何等をか五と為す。 汝當に時に随って
何を五種の歓喜とするのでしょうか。
あなたは時が経つ間に為すべきことがあります。如来の事たる、 如来・應・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・佛世尊、
如来に心を向けるのです。
衆生を導いて下さる如来の十の姿(如来の十号)を思い浮かべるのです。如来の十号である
① 如 来 あるがままの姿で進まれ真実を人に示す、
② 應 愛恭敬し供養するのに相応しい方、
③ 等正覚 正しい菩提と智慧を獲得しておられる、
④ 明行足 三明六通と戒定慧の修行を自由自在に為す、
⑤ 善逝 無量の智慧により出世間に逝かれた、
⑥ 世間解 世間のことは何でもお解りになる、
⑦ 無上士 最も尊い存在、
⑧ 調御丈夫 どんな衆生も調伏調御して解脱に至らせる、
⑨ 天人師 人間界と天上界の師匠、
⑩ 佛世尊 自ら覚りに至りこの世で最も尊い、このことを念じるのです。念じるとは心に思い浮かべることです。
如来の十号はお釈迦様がいかに素晴らしい力を持っておられるかを説いたものです。
このことを信ぜよというのでしょうか。勿論信じることは大切なことです。
お釈迦様は何を説かれたのか。
苦を滅して解脱に向かう心の使い方を説かれたのです。解脱の修行は、お釈迦様が説かれた解脱への道を知り信じることから始まります。 解脱のシステムは如来の十号に示された力を持たれたお釈迦様がお説きになったのです。阿含経を読んでさっぱり分からなくても、お釈迦様の解脱法を説いた解説が頭に入ってこなくても、お釈迦様に親しみ信じる心が強ければ解脱に向かって動き出します。
修行の出発点ではお釈迦様への親愛のエネルギーと信の力によって、自分の心を観察し制御します。ここに解脱へ向かう力があることを知って実践し、解脱に向かっている心を観察し知って歓喜を生じます。(当ホームページ ー阿含経を読む ー解脱へ向かう 「信行」参照)
雑阿含経一切事経には「信」に相当するフレーズに「正戒」が当てられているテキストがあります。仏陀への信の中で一番大切なことは「正戒」を知りこれを信じることであると暗示していると思われませんか。私には単に単語を取り違えただけとは思えないのです。「正戒」とは戒そのものを説いたのではなく、正しい戒に対する取り組み方を説かれた。これがお釈迦様の解脱システムで一番大切なことです。この究極の取り組み方は四念処観という形で伝えられています。四念処観については本ホームページの「四念処観と七覚支」で、私(著者)の見解をお伝えしています。
法のこと、
「法のことを念ずべし」とは、お釈迦様が説かれた正しい心の成り立ちと、正しい心の使い方についての智慧に心を向けるのです。
解脱に向かう二番目の段階「法行」では、この法の力を使って心を観察制御します。ここに解脱へ向かう力があることを知って実践し、解脱に向かっている心を観察し知って歓喜を生じます。
「法行」でも、解脱に向かう作業は、四念処観によってなし、これによって戒を護ります。このときには、潜在意識が生まれながらに備えている成就する力、「自然の神力(じねんのじんりき)」を使うのです。まず自然の神力を動かすのに必要な智慧を脳と心に蓄積します。この智慧、「法」をお釈迦様が説いて下さっているのです。「法」によって、脳と心の構造を知り、苦を生じない心の動かし方を知ります。
お釈迦様が説かれる心の動かし方の智慧を知れば、私たちでも解脱に向かうことができるのです。
(当ホームページ ー阿含経を読むー解脱へ向かう 「法行」参照)
僧の事を念ずべし。
僧、すなわちお釈迦様の解脱への道を実践しているグループ(修行者の集団)に所属していると解脱に進む力が得られます。
力が得られると言うよりも、このグループに所属していないと解脱に向かうことが出来ないと言うべきでしょう。自分の戒となすべきことは、僧の中で見つかることが多いのです。
僧のグループに参加して大切にすると 、心が解脱に向かう力を得られることを知って歓喜を生じます。
自ら戒の事を保ち、
自から努力精進して悪い心癖が出ないように生活します。
欲心・恚心・害心など進化の過程で培われた動物の心を断じ、 我が利中心の欲を離れ、恚りを無くし、不満を言わず、人を責めず、嫉妬せず、威張らず、自分を偉く見せようとしない、このようにします。 これが自分の悪い心癖であると認めて、この悪い心癖を無くすことを戒として取り組んでいなければ、解脱に向かうことはありません。自ら戒の事を保ちという。すなわち自分から常に戒を護ろうと心を向けていることが必要です。 戒の実践は四念処観によって為すのが一番易しい道です。当ホームページの「四念処観と七覚支」の項をご参照下さい。
仏法僧への信に基づいて、戒を護ることが解脱への道です。このことを知って歓喜して実践します。この実践によって私達でも実際に解脱に向かっていることを実感することができ、解脱に向かっている心を観察し知って歓喜を生じます。
戒の実践は悪い心の動きを押さえ込むことではありません。悪い心癖が出てくる心の構造を知って、悪い心癖が発生しないように心の仕組みを変えるのです。
自ら世の事を行じ、
世間の中で、自から行動して今日為すべきことを律儀に立派に成し遂げ、世の中に役に立つ生活をします。
世間によって為されるままに過ごすのではなく、自ら世の事を行じるという。すなわち自分から積極的に世の事を為してゆくのです。 このように精進努力することが解脱に向かう大きな力になることを知って、これを実践し歓喜を生じます。
世のことをどのように行ずるのか。世のことを我が利を求める自己中心の心で為すのではなく、世のことを「施」の心をもって為すのです。
ここに私達でも解脱に向かうことが出来るこつがあります。
信と戒による修行をするとき施の実践をすると、解脱の実感を得やすくなります。というよりも世の事を施の心で行じようとしているときに、解脱のテーマである「戒」が見つかることが多いのです。
世の事を行じ施を実践すれば、解脱に向かう速度が速くなることを知って歓喜を生じます。
難提経① まとめ
お釈迦様や先達が見ておられても見ておられなくても、歓喜を生ずる 五つのことを実践しなさいとおっしゃっています。
最初の三つの項目、佛・法・僧は三宝と呼ばれています。後世になると仏道の修行は三宝を大切にし 佛・法・僧の役に立つ(供養を捧げるという)ことから始まると言われるようになります。
私達の解脱に向かう道は三宝への供養というよりも、三宝から得られる力によって成就してゆきます。解脱への修行は「信行」そして「法行」と名付けられている段階から始まります。 すなわち最初は仏陀への信の力によって戒を護り解脱に向かい、次は法すなわち智慧の力によって戒を護り解脱に向かいます。
自分の心の至らぬ所に気がつき、これを直してゆくには、さらに「僧」による助けが必要であり、これによって「戒」と「世」を力強く実践します。
戒の実践とは悪い心癖がなくなるように生活することです。
心を変える智慧と技術の第一歩は自分に必要な戒を知ることです。自分の「戒」を知る方法は、ひとつは「信」すなわち仏・法・僧により、もうひとつの一番善い方法は「施」の心によって世の事を行じようとすることです。
三宝の三つに戒の成就を加えた四つには、解脱に向かう力があることを信じて実践する、このことは四不壊浄と名づけられています。 この四つに対する信を、どんな人に言われても絶対に壊されない信となして生活するのです。四不壊浄によって、因縁解脱の第一段階と第二段階を成就することができます。(仏陀に学ぶ脳と心 第一巻から第三巻 参照)
この四つの歓喜を生ずる力を使って解脱を為した人は須陀洹と呼ばれています。 須陀洹は仏道の聖者の第一段階です。
五番目の項目には、世のことを自ら立派に成し遂げて行くのだ、とあります。 このお釈迦様のお言葉は在家の修行者である難提に向けて説かれています。 在家の修行者にとって、世の事を立派に律儀に為していることが大切なのです。
当時の出家の修行者は食物を托鉢によって得ていました。 出家の修行者は、この托鉢に向う心がけと態度が修行の出発点となります。托鉢のときに施の心を養うのです。
在家の修行者は食物を世の事を行ずることによって得ています。
「施の心をもって 自ら世の事を行ずる」こと、これが解脱に向かう力を得るコツであり、またこの施の心が完成することが修行の成就につながってゆきます。
この五つのことを為してゆけば解脱に向かうと知り歓喜を生じます。また、歓喜を生じてこのことを為していなければならないのです。 これが聖者の第一段階須陀洹に向かう道です。
須陀洹は歓喜だけで心があふれるように一杯になっています。最後にひとつだけ心に留めておかねばならないことがあります。
ここでの歓喜は動物の欲の心が満たされたために生ずる歓喜ではありません。 動物の欲の心から離れて静かで穏やかで清らかな心から生じる歓喜です。
ここを間違えると解脱どころではなくなってしまいます。世の中が変化しても消えることがない歓喜の心があるのです。難提経でこの続きに説かれていることは、歓喜を得た功徳によって為すべき五つのことです。
在家の阿羅漢へ 難提経②の頁に続きます。
付記 信戒施の実践と三結(身見・疑惑・戒取)
信戒施を実践すれば三結すなわち身見・疑惑・戒取を断じ、須陀洹に向かいます。
① 信を高めれば疑惑を断じ、
② 正しい戒の実践は戒取を断じ、
③ 施によって世の事を行じれば身見を断じます。① 信の実践ではお釈迦様が説かれる心の仕組みと解脱に向かう心の使い方を学びます。この智慧に疑惑がなくなれば良いのです。
② 戒の実践ではどのように戒取をとらえているのでしょう。
たとえば、怒りを無くすことを戒としているとき、ただ怒りを抑えようと格闘している、これが戒取です。戒取がなければどの様になるのでしょう。怒りが発生する心の仕組みを知ってその元にある脳と心のプログラムを無くそうとします。すなわち怒りが発生しない脳と心を作り出します。③ 施の実践はどうでしょう。
身見は我利を求める自己中心のものの見方です。
施によって世の事を行じるには、自己中心の我利の心を滅することが必要です。
施の実践はひとりでに身見を断滅します。この様に信戒施の実践は三結を断じ須陀洹に向かいます。
付記終り
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