道を知る3 

ひの出版室 阿山恭久記す 

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平成29年8月4日

貪瞋痴と欲恚痴

貪瞋痴と欲恚痴をパーリー語で見てみましょう。

貪 rãga (貪着、執着)
瞋 dosa (憤怒、激しい怒り)
痴 moha (暗愚、愚鈍)

欲 kãma (神の意志による根源的な欲、動物としてプログラムされている)
恚 vyãpãda (周囲のエネルギーを削ろうと恨みを蓄えている)
痴 moha (暗愚、愚鈍から出てくる害心)  

 パーリー語から貪瞋痴と欲恚痴の違いが見えてきませんか。
ちなみに害念は vihimsa-vittaka といいます。

平成29年8月7日(改訂平成30年3月5日)

欲念を離れる

  欲念を離れるのが須陀洹に向かう出発点です。

 欲念の欲は kãma であり「神の意志による根源的な欲」であるという。
 桐山靖雄師の御著書「輪廻転生瞑想法」には、解脱を為すのは「地球の引力」にさからって生きるようなものであると記されています。
 欲念は動物にプログラムされた根本の行動原理で、これを離れるのは「地球の引力」にさからって生きるのと同じようにむずかしいのです。でも欲念を離れなければ須陀洹になれません。

 欲念はどのようにあらわれるのか。
私は偉いとつぶやき、思い、私は正しいと主張し、自分を偉く見せようとします。 脳と心に次々と現れ、言葉の端々にでてしまいます。

 欲念を離れると、自分を偉く見せる心の動きと行動はなくなります。
 迷いがなくなり、抜群の実践力によって行動します。
 つぶやきのない静かな世界を楽しむことが出来ます。

 解脱に向かうには、欲念を離れようと常に注意して過ごさねばなりません。 お釈迦様の最勝の智慧「自然の神力(じねんのじんりき)」を使って無欲念に向かいます。
 難提経には、「捨の平等惠施」を楽(ねが)うことが説かれています。
身につけるのではなく、楽(ねが)うのだという。
ここに欲念を離れるこつがあるのでしょう。

 欲念を離れ、恚念・害念がなくなれば須陀洹です。

 

平成29年11月17日

「捨の平等惠施」を楽(ねが)う

 「捨の平等惠施」とは、寂静になった脳と心を周囲の人々や霊魂に伝えて、静かで穏やかな状態を作り出すことです。
 我(が)がなくなると「捨の平等惠施」を為すことができます。

 難提経には、阿羅漢の五つの施のなかで、解脱施、捨施、常熾然施については「修し」と説かれ、「捨の平等惠施」については「楽(ねが)い」と説かれています。「捨の平等惠施」が我(が)がなくなることから生じるとすると、我(が)をなくす作業も「修する」のではなく「楽(ねが)う」ことが大切であるといえます。 
 なかなか消えない我(が)に対して、「離れて、なくなることを楽(ねが)う」という心の持ち方は、自然の神力(じねんのじんりき)を動かすことに相当し、この方が効果的なのでしょう。
 我(が)の寂滅に向かう作業も、つっぱって行うのではなく、静かに潜在意識を使ってなしとげてゆくのです。

 

平成29年10月1日(改訂11月4日)

仏陀の道 

 わかってほしいことが三つあります。 
① 貪瞋痴を離れる。ーーー何年も挑戦していてうまくゆかない、何故か。
② 我(が)を無くす。ーーーわからないままかも知れません。 
③ あふれるような慈愛のエネルギーを身につける。ーーー これならわかるでしょう。
 わかることなら実践できます。 
 この三つを実践すれば解脱に向かいます。

 このホームページでは仏陀の解脱の道を読み取ろうとしています。
 仏陀の解脱の道は誰にでも実践できる易しい道です。脳と心を変えますが、特殊な技術を必要とすることはありません。素直な心があればよいのです。
 お釈迦様の時代には、朝、お釈迦様から説法を聞き始めると、お昼には解脱したと伝えられています。

 どのように道を歩もうとも、この三つを成し遂げなければ解脱することがなく、この三つを成し遂げれば解脱します。

貪瞋痴を離れるへ
涅槃を得るにはへ 

 

平成29年11月29日(12月6日改訂)

涅槃を得るには

 「涅槃を得るには」のページには、
「我れ即ち無欲念を生ずるを覺り、自から害せず他を害せず、亦た倶に害せず、慧を修し煩勞せずして而も涅槃を得。」と説かれいます。
このテキストが涅槃を得る道です。

 なんとこのテキストの「涅槃」の文字を「須陀洹」に置き換えれば、そのまま須陀洹への道を表しています。

 解脱への道は、

① 無欲念を生じ(我(が)をなくし)、
② 害心を無くし(自分と周囲のエネルギーを削ぐことがなく)
③ 慧を修する(あふれるような樹愛の心を修する)
ことによって成リ立っています。これしかないのでしょう。

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平成29年11月24日

自ら世の事を行じ

 「歓喜を生ず」のペ-ジには「仏法僧戒世」のことが説かれています。
「世」は「施」の文字をワープロで打ち損なったのではありません。
 「自ら世の事を行じ」が、「仏・法・僧・戒」と並んで歓喜を生じる大切な修行であるというのです。
 世の事は「やって来たことだけを為している」のではなく「自ら進んで為しなさい」と説いています。

 

平成29年11月18日

徳とは何か

 徳と何か。どのくらいの強さと大きさの「慈愛のエネルギー」を身につけているか。これが徳であると思いませんか。


平成29年10月25日

奇跡の力

 奇跡は何によって起きるのでしょう。
あふれるような強い強い慈愛のエネルギーによって起きると思われませんか。
 奇跡のご霊光も慈愛のエネルギーの現れです。
 奇跡 に接したら、降り注ぐ慈愛のエネルギーを我が身に受け止めて、我が身を慈愛のエネルギーで満たして、世のことに向かいます。

 

平成29年10月9日

我(が)とは自己主張

 我(が)とは、我が身を偉く見せようとする自己主張が脳の中で走り回っているのです。
 自己主張が走り回っていなければ、周囲にある草花や木、石などに宿り、また周囲の霊魂や神仏の魂のバイブレーションと力が、自己主張に邪魔されずに脳と心に入ってきます。
 となりに坐っている人の心も入ってきます。

 この姿が「霊性がある」の第一歩であるのでしょう。

 

 
平成29年9月16日

霊性への道

 霊性顕現への道は、「ーーー我已に是の如き定心を得、清浄にして穢無く煩無く」とあり、「柔軟にして善く住し不動心を得 」と続いています。
 「定心を得」は、四禅に順に住すること、すなわち阿羅漢の「定」を身につけていることを示しており、「清浄にして穢無く煩無く」は、定心を得て脳と心が寂静になっていることを示しています。

平成29年10月11日(改訂10月23日)

霊性の成り立ち

 霊性とは、自己主張がなくなって脳に自在に情報が入ってくるだけではない、相手にエネルギーを送って変化させることも出来るのだ、とおっしゃるでしょう。

 あふれるような強い強い慈愛のエネルギーを送って相手を変化させる、これが出来るのです。

 霊性は、「我(が)が無くなっている」と、「あふれるような強い慈愛のエネルギーをそなえている」、この二つによって成り立っています。 

 慈愛のエネルギーが物理的な作用を越えて、周囲を動かしてゆくことを経験して下さい。慈愛のエネルギーは奇跡を起こします。

 

 
平成29年10月16日

となりの人

 となりの人の心が見えて困ることがあります。
困ったときは慈愛のエネルギーを送ります。

 

平成30年3月15日(改訂3月18日)

阿羅漢に向かう

 須陀洹、斯陀含、阿那含への取り組みは、それぞれの脳と心の状態を知っていれば、難しくはありません。
阿那含を越える境涯は、我(が)を無くし、慈愛のエネルギーを増やすことにつきますが、その過程で起きてくることは厳しいものです。

 我(が)がある段階まで少なくなると、世間の情報が五感を経由しないで脳に入ってくるようになります。 この世間の情報と、残っている我(が)による自己主張がぶつかって、身体が壊れてしまうことがあるのです。命終と直面してしまうこともあります。
これを越えるには、阿弥陀如来とお地蔵様の世界を知って、阿弥陀如来とお地蔵様に心を向けます。 

 

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