法印経 ひの出版室

 

法印経

平成27年4月20日 阿山恭久記す (平成30年4月25日 改訂B)

 

(タイトル以外の太字の部分は 国訳一切経印度撰述の部阿含の部 大東出版社 から引用しています)

 法印とは脳と心の動きの中心にある形を表しています。

雑阿含経 一八一 法印経より

是の如く我聞きぬ。一時佛、舍衞國祇樹給孤獨園に住りたまへり。
爾の時世尊諸の比丘に告げたまはく。
「當に聖法印及び見清淨を説かん。諦に聽き善思せよ。

お釈迦様が「聖法印と見清淨を説いて下さるという。

 

若し比丘有りて。是の説を作さん。
「我、空三昧に於て、未だ得る所有らざるに、
而も無相・無所有・離慢・知見を起こす者なり」と。是の説を作すこと莫れ、所以は何ん。
若し空に於て未だ得ざる者にして、
而も我、無相・無所有・離慢・知見を得たる者なりと言ふは、
是の處り有ること無ければなり。

若し比丘有りて。是の説を作さん。
「我、空を得て能く無相・無所有・離慢・知見を起せる者なり」と。
此れ則ち善説なり。所以は何ん。
若し空を得已って、能く無相・無所有・離慢・知見を起すとせば、 斯れ是の處有ればなり。」

もし空(くう)において未だ得ていないのに、よく無相・無所有・離慢・知見を得たと言うことはないという。

すなわち 無相・無所有・離慢・知見の悟りは「空」を得てから為しとげられるのです。

「云何が聖弟子及び見清淨と爲すや。」
比丘、佛に白さく。
「佛は法根法眼法依爲り。唯願くば爲に説きたまへ。
諸の比丘説法を聞き已らば、説の如く奉行せん。」

どの様であれば、聖弟子であり、見清淨であるといえますか、とお釈迦様に質問しています。

 

佛、比丘に告げたまはく。
「若し比丘、空閑處の樹下に坐し、
善く色の無常・磨滅・離欲の法なるを觀じ、
如の是く受想行識の無常・磨滅・離欲の法なるを觀察し、
彼の陰の無常・磨滅・不堅固・變易の法なるを觀察せば、
心清淨の解脱を樂はん。
是れを名づけて空と為す。

 

空とは、
「善く色の無常・磨滅・離欲の法であることを観察し」、
「同じ様に受想行識の無常・磨滅・離欲の法なるを觀察し」、
「彼の陰(脳の奥深くにある前世の情報)が無常・磨滅・不堅固・變易の法であることを觀察すれば」、
心清淨の解脱を樂(ねが)うようになります。
これを名づけて空とします。

「心清淨の解脱」これが空なのです。

この感覚を知ることから始まります。


是の如く觀ずる者は、亦た慢を離れ知見清淨なる能はざるも、
復た正思惟三昧有りて、色相斷じ、聲香味觸法相斷ずるを觀ぜん。 是れを無相と名づく。

このように心の状態が「空」になっていると観察する者は、慢を離れ知見清淨であることが出来ていなくても、 正思惟三昧に有って、色相斷じ、聲香味觸法相斷ずるを観察するでしょう。
是れを無相と名づけます。

「空」であれば心は無相であるという。

是の如く觀ずる者は、猶を未だ慢を離れ知見清淨ならざるも、
復た正思惟三昧有りて、貪相を斷じ、瞋恚・癡相を斷ずるを觀察す。
是れを無所有と名づく。

空と無相を観察する者は、まだ慢を離れ知見清淨であることが出来なくても、
正思惟三昧に有って、貪相を斷じ、瞋恚・癡相を斷ずるを觀察します。
是れを無所有と名づけます。

 

是の如く觀ずるも、猶を未だ慢を離れ知見清淨ならず。

このょうに、貪相を斷じ、瞋恚・癡相を斷じた無所有を観察しても、なを未だ慢を離れ知見清淨に入っていない。

復た正思惟三昧有りて、我所は何に從りて生ずるかを觀察し、復た正思惟三昧有りて、我・我所は、
若しは見、若しは聞き、 若しは嗅ぎ、若しは甞め、
若しは觸れ、若しは識るより生ずと觀察し、

また正思惟三昧が有って、

我・我所は、
「若しは見、若しは聞き、 若しは嗅ぎ、若しは甞め、 若しは觸れ、若しは識るより生ずる」と觀察し、

復た是の觀察を作さん。
若しは因、若しは縁によりて識を生ずとせば、
彼の識の因縁は、常と爲すや無常と爲すやと。

復た是の思惟を作さん。
若しは因、若しは縁によりて識を生ずとせば、
彼の因彼の縁は皆悉く無常なりと。

もしくは因、もしくは縁によって識を生ずるとすれば
その因、その縁は皆ことごとく無常です。

 

復た次に彼の因彼の縁、皆悉く無常ならば、
彼の生ぜし所の識、云何ぞ常有らん。

また次にその因、その縁、皆ことごとく」無常であるなら、 その生じた所の識は、どうして常でありえようか。


無常なる者は是れ有爲の行なり。
縁に從りて起こるは、 是れ患の法、滅の法、離欲の法、斷知の法なりと。

無常なるものは有爲の行です。
縁に從って起きるは、 「患の法、滅の法、離欲の法、斷知の法」です。

是れを比丘、當に聖法印知見清淨を名づく。


是れ(無相を観察し。無所有を観察し無常を観察する)を聖法印、知見清淨と名づけます。

 

是れを比丘、當に聖法印知見清淨を説くべしと名づけ、是の如く廣説す。」と。

これを修行者よ、「當に聖法印知見清淨を説く」と名づけ、是の如く廣説す。」と。

佛、此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘佛の説かせたまふ所を聞きて。歡喜し奉行しき。

    雑阿含経 一八一 法印経より

 

 法印経は素晴らしい経典ですね。解説したいことも沢山ありますけれど、ウェブでお伝えするのはここまでにして、皆さんとお会いして、ゆっくり語り合えたらと思っています。

 

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