素直になる 中阿含経慚愧経より①
平成24年12月13日 阿山恭久 記す
人が進歩向上したいと思うとき、どこから取り組めばよいのだろうか。お釈迦様の説法は、私達凡夫が進歩向上する方法を示して下さっています。また、この方法は苦しみや悩みから脱出する方法でもあります。そのために何をすれば良いか、心と行動を変えるのだという。
どのように心がけているとこの道を歩み出すことが出来るのだろうか。
この歩みへの出発点は、自分の心に至らない部分があることを発見することです。
このページでは、お釈迦様が説かれた進歩向上の道、この出発点から終着点「解脱と涅槃」までの段階を、中阿含経慚愧経から学ぼうと思います。
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(タイトル以外の太字の部分は 国訳一切経印度撰述の部阿含の部 大東出版社 から引用しています)
はずかしいと思わなければ
若し比丘無慚無愧なれば すなはち愛恭敬を害す。
もし進歩向上する修行を志すものが、無慚無愧であると 友達や先輩、師やお釈迦様を愛し恭い尊敬する気持ちを害して、愛恭敬の心が生じません。
(無慚)
恥ずかしいと思わない心。何を恥ずかしいと思わないのか。心の中に怒りや不満や貪りなど人の役に立ちにくい部分が存在することを自分では恥ずかしいと思わないのです。
現在の心や行動の状態が満足すべき状態にないことに気がつかないでいます。友達や周囲の人に比べて自分の方が正しく勝れていると思っている人や、どの人も同じ程度でたいして変わらないレベルであると思っている人は、自分の心遣いや考え方に足りない所があっても恥ずかしいと思いません。
こういう人は向上する取っ掛かりをつかめないでいます。この人はまず素直になって自分の至らない心を慚愧することを知らねばなりません。
(無愧)
神仏や周囲の人たちに対して恥ずかしいと思わない。
何を恥ずかしいと思わないのか。心の中に怒りや不満や貪りなど人を傷つける部分が存在しており、心遣いが足りないことを恥ずかしく思わない。現在の心や行動の状態が満足するものでないのが気にならない。
友達や周囲の人に比べて自分の方が勝れていると思っているので、心遣いや考え方に及ばない所があっても恥ずかしいとは思わない。神仏や周囲の人がその人の心の中を見てこの状態を見通しているのに、これに気が付かずにいる。慚と愧の二つの心を持つことが心を変え向上に向う作業の出発点です。この二つの心を持っていないと自分が変わらなければならないと思う気持ちが薄くなるからです。慚と愧がいわゆる菩提心の出発点です。
無慚無愧であると自分は勝れていると思っているので、友達や周囲の人、先輩、師やお釈迦様を愛し恭い尊敬する気持ちが出てこないのです。自分の周囲にいくら勝れた友達がいても、愛恭敬の心が生じないのです。
敬愛し恭っていなければ信じない
若し愛恭敬なければ すなはちその信を害す。
友達や周囲の人を敬愛し恭い尊敬する気持ちがないと、周囲の人がどんなに素晴らしい心や考え方を持っていて、それを示し語っても、その言葉を信じることが出来ません。
自分は正しい、優れているという気持ちが強い人は、人が優れた点を持っていても敬愛し恭まう心が出てきません。尊敬する気持ちがない人は、どんなに素晴らしい考えが語られていてもこれを信じないのです。
ただ、嫉妬の思いがでてくるだけであったりします。
信じなければ
若しその信なければ 正思惟、正念・正智を害す。
信じなければ、その言葉や思想がいくら勝れたものであっても、その言葉や思想について正しく心をめぐらし考えてみることが出来ません。
正しく思考出来ないのなら、その言葉に正しく心を向けることが出来ず、お釈迦様の智慧に沿って心が静かで穏やかになったことを知ることが出来ません。信じていないのなら、その人が語る言葉や思想は,全て「猫に小判」「豚に真珠」となってしまいます。
中阿含 経慚愧経で、ここから先に語られる言葉はお釈迦様が説かれた「心を変え苦しみと悩みから脱出する道筋」です。すなわちお釈迦様の解脱へ向けた修行法について説かれています。
ここまでに説かれていた解脱に向う道筋は、無慚無愧なれば 愛恭敬が害される。
愛恭敬がなければ信じることが出来ない。
信じていなければ正しく思惟されることはない。
正しく思惟されないなら正念・正智することがない。という四つの段階でした。
例えそれがお釈迦様の説法であっても謙虚で素直な心でなければ受け止めることが出来ないのです。
ここからは解脱と涅槃に向う修行の段階が説かれます。
涅槃への道 慚愧経②へ続く
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