苦楽の縁を変える ひの出版室

 

苦楽の縁を変える

 雑阿含経 阿支羅経より

平成26年7月5日  阿山恭久記す(改訂A)

 苦楽の縁が変ると運が良くなりそうです。誰が苦楽を作るのでしょう。
苦楽が作られる道筋か分かっていれば、苦楽を変えることが出来るかも知れません。
雑阿含経 阿支羅経にヒントが説かれています。
 この経典では、在家の人が、たまたまお釈迦様と出会って質問して答えて頂きます。 この在家の人はこの時のお答えを理解して苦から脱出して涅槃を得たと記されています。

(タイトル以外の太字の部分は 国訳一切経印度撰述の部阿含の部 大東出版社 から引用しています)

 

お釈迦様との出会い

雑阿含経 一一八七六 阿支羅経より

是の如く我聞きぬ。一時佛、王舍城耆闍崛山に住り給へり。
爾の時世尊、晨朝に衣を著け鉢を持ちて、耆闍崛山を出でて王舍城に入り乞食し給へり。
時に阿支羅迦葉有り。小事を營む為に、王舍城を出でて、耆闍崛山に向う。遙に世尊を見たてまつりて、見已りて佛の所に詣で、佛に言して白さく。
瞿曇。所問有るを欲す。寧ろ閑暇見る有りて答與うるや不や。
佛、迦葉に告げたまはく。今は論時に非ず。我、今入城し乞食せん。還り來れば則ち是れ其の時なり。當に汝が爲に説くべし。第二も亦是の如く説く。第三に復た問ふ。瞿曇。何ぞ我が爲に留難を作すや。瞿曇。云何が異有り。我、今所問有るを欲す。我が爲に解説すべし。
佛、阿支羅迦葉に告げたまはく。汝の所問に隨うべし。

あるとき、お釈迦様は托鉢をなされようと王舍城に向っておられました。
そのとき阿支羅迦葉という在家の人が王舍城で用事を済ませて耆闍崛山に向っていました、途中で遙かにお釈迦様のお姿を拝しておそばに伺いお願いしました。
「質問があるのですが時間を頂けませんか」と。お釈迦様は乞食が終ってからにしたいとおっしゃいますが、阿支羅迦葉は「私はすぐでないと困ります」とお願いし、お釈迦様はそれに随って解説をなさることにします。

 お釈迦様は通りがかりの阿支羅迦葉に対しても親切に応対されたのですね。

苦は自作か

阿支羅迦葉、佛に言して白さく。「云何が瞿曇。苦は自作なる耶。」
佛迦葉に告げ給はく。 「 苦自作なるは、此れ是れ無記なり。」

阿支羅迦葉はお釈迦様に申しあげました。
「どうでしょうかお釈迦様。苦は自分が作ったものでしょうか。」
お釈迦様は迦葉に告げられました。「苦は自作であること、これは無記です。」

 最初の質問は「苦は自分が作ったものですか」というものです。
お釈迦様のお答えは無記であるという。 「無記」とは、それについては肯定も否定もしない。説かれた記録がないのです。

 凡夫は、苦を自分が作るはずがない、苦は他の人や世間によって作られ自分に押し寄せてくるのだと思っています。お釈迦様はどのようにおっしゃっているのでしょうか。
無記であるという。すなわち、苦は自分で作ったものであるかについて肯定も否定もせず、説いたことが無いというのです。

苦は他作か

迦葉復た問はく。 「 云何が瞿曇、苦は他作なる耶。」
佛迦葉に告げ給はく。 「 苦他作なるは此れ亦た無記なり。」

次の質問は「苦は他の人や世間によって作られたものでしょうか」というものです。
これに対するお答えも無記であるという。

苦は誰が作ったのか

 いったい苦は誰が作ったというのでしょう。
ここから、苦楽はどの様に作られるかについて交わされた、迦葉の質問とお釈迦様のお答えをまとめて掲載します。

迦葉復た問はく。 「 苦は自他作なる耶。」
佛迦葉に告げ給はく。 「 苦自他作なるは此れ亦た無記なり。」
迦葉復た問はく。 「 云何が瞿曇。苦は自に非ず他に非ず無因の作なる耶。」
佛迦葉に告げ給はく。 「 苦は自に非ず他に非ずは此れ亦た無記なり。」

自作か他作の項目を含めてまとめて整理しますと

① 苦は自作であるかは無記である。 苦は自分で作ったものかという質問には否定も肯定もしない。
② 苦は他作であるかは無記である。
苦は自分以外の世間によって作られたものかについても無記であるという。
③ 苦は自他作か。これも無記である。
つまり自分と他人(世間)の共同作品ですかというのです。
④ 次は苦は自に非ず他に非ず無因の作ですかという。これも無記であるという。
作ったのは自分でもなく他人でもなく、生じてくる原因がないのに作られのかとの質問です。
これも無記であるという。

 片端から無記であるとのお答えなので迦葉は少し困ってお釈迦様に尋ねます。

苦は存在しないのか

迦葉復た問はく。
「 云何が無因の作なるとせば。瞿曇、苦自作なる耶と問へば答へて無記なりと言い、
他作なるや、自他作なるや、自に非ず他に非ず、無因の作なる耶と問へば、
答へて無記なりと言う。今此の苦無きなる耶。」

どうですか、苦は無因の作(生じてくる原因がない)であるのではありませんか。
お釈迦様。苦は自作ですかと問うと答えて無記なりとおっしゃり、 他作ですか、自他作ですか、自でもなく他でもない無因の作ですかと問うと、これについても無記であるとおっしゃいます。お釈迦様、此の苦は無いのではありませんか。」

 迦葉は、「自作も、他作も、自他作も、自に非ず他に非ず無因の作ですか、とこの全てに、かたっぱしから無記であるというのでは、この苦は無いということですか」と質問しています。

佛迦葉に告げ給はく。 「 此の苦は無きに非ず。然して此の苦は有り。」

お釈迦様は、 「苦が無いという訳ではない。この苦はあるのです」と答えておられます。

苦は「受」から生ずる

迦葉佛に言して白さく。 「 善哉瞿曇。此の苦有りと説く。我が為に苦を説き、我に苦を知り苦を見さしめたまへ。」

そこで迦葉はお釈迦様に申し上げます。
「わかりました。お釈迦様。この苦はあると説かれるのですね。
どうぞ私のために苦を説いて下さい。私に苦を知らしめ、苦があることを見せて下さい。」

 開き直った迦葉に、お釈迦様は苦がどのように生ずるかを説かれます。

佛迦葉に告げ給はく。
「 若し受即自受なれば、我應に苦は自作なりと説く。
若し他受、他即ち受なれば、是れ則ち他作なり。
若し受、自受他受にして復た苦を與へなば、是の如くなるは自他作なり。
我亦た若し因自他ならざるを説かず。 無因にして苦を生ずるは、我亦た説かず。

お釈迦様の説法の最初の部分は、もし苦が自作であり、他作であり自他作であるとするとどの様に考えることが出来るかを説いておられます。苦が生じるときはまず心の中に「受」が生じます。 「受」は心の中の要求「愛(タンハー)」を満足させる情報として、世間の出来事が心に取込まれたのです。「受」は脳内で苦が動き出す出発点です。

① 受即自受、心の動きが生じるもとになる受が自分だけで起きるのなら苦は自作であるといえます。
世間に何も起きていないのに、脳と心の中だけで受が生じることがあるのだろうか。
昔や未来のことを考え生じる苦もあります。このように生じる苦は自作であるかも知れません。
② 他受だけしかない、他即ち受、他からきたものがそのまま受になっていれば他作であるという。
受に自分の心が、かかわっていないのです。
③ 受が自受他受、自分と世間とから同時に生じた受であって、これによって苦が生じるなら、自他作と言えます。
④ また、苦が生じる因が自にもなく他にもないと説くことはありません。
何も原因がないのに苦を生ずると説くことはないのです。

ここから、お釈迦様が苦を生じる道筋について説法されます。

中道の説法 縁起の法

此の諸邊を離れ其の中道を説きて如來は法を説く。

ここまでにあげられた四つの邊(偏った見方)を離れて、中道を説いて如来は心の動きとします。

此れ有るが故に彼有り。此れ起るが故に彼起る。

「此れが有るから彼が有り、此れが起るから彼が起るのです。」
お釈迦様がものの成り立ちを説かれた有名な一句です。
物事が起きるには必ず原因と結果があるというのです。

謂ゆる無明縁じて行あり、乃至純大苦聚集まる。
無明滅すれば則ち行滅す、乃至純大苦聚滅す。」

「謂ゆる」とはここからの言葉がお釈迦様の最も大切な定番の教え「縁起の法」であることを示しています。
無明を縁にして行があり、乃至純大苦聚が集まります。
無明を滅すれば則ち行が滅します、乃至純大苦聚が滅します。
「乃至」の部分には、行・識・名色・六入・觸・受・愛・取・有・生・老病死憂悲悩苦の、十一の項目があって、それぞれを縁じて生じ、それぞれが滅すれば次の項目が滅することが示されています。いわゆる十二因縁、縁起の法です。

苦しみはどの様に作られるのか。

 純大苦聚は老病死憂悲悩苦として集まるのだという。
ここでは縁起の法を解説することが目的ではないので、縁起の法についての詳細は「仏陀に学ぶ脳と心 第五巻」を参照して頂くことにし、ポイントだけ解説します。

三事和合による「觸」が受を起生する

 前の項目で「受」がとりあげられていましたが、「受」は、世間の情報が苦であるか楽であるかが判定されて心に入ってくる最初の段階です。この「受」は「觸」を縁にして起き生じます。
「觸」とは何か。世間からやってくる情報が眼などによって捉えられ、脳内にある過去の記憶と照合されます。もし二つの情報の相が一致すると「觸」が生じます。
いわゆる三事和合が起きたのです。
(三事和合については「仏陀に学ぶ脳と心 第一巻」に詳説されています。)
 世間の情報が心に入ってくるには過去の記憶が関わっているのです。 過去の記憶の質によって、世間の出来事がどのように捉えられて脳に入ってくるかが決まります。

三事和合はどうして起きる

 三事和合はどうして起きるのか。 「無明」と「行(ぎょう)」を縁にして起きるのです。
 「苦」を生じる出発点は無明であるという。 無明には二つの種類があります。
第一は、動物としてプログラムされた我利を求める欲の心です。
第二は、前世から持ってきた自分の成し遂げたい思い「愛(タンハー)」の実現に執着する掉慢無明です。この二つは智慧が働く余地がなく無条件に動いてしまうので無明と名付けられています。
 この二つの無明を縁じて動き出すのが「行(ぎょう)」(苦を生じてゆく悩と心の動き)です。「行」は欲と愛(タンハー)を実現するために脳と心を動かし展開し相続してゆきます。苦を育てるのです。
まず、「行」は、欲と愛(タンハー)が成就する姿を、記憶「識」の中に探し、この記憶と同じ相の世間の姿を探し求めます。すなわち三事和合を起動し「觸」が生じる縁となります。
苦を生ずる縁には、欲と愛(タンハー)、そしてこれに執着する無明が関わっているのです。

苦を生ずる心の縁

 苦が生じる心の縁は二つありました。
① 第一は三事和合を起こす過去の記憶の質です。
② 第二は、前世などの満たされない思い「有結」と「愛(タンハー)」、そして、動物の欲と「愛(タンハー)」の実現に執着する二つの無明でした。
これによって苦楽を生じるのです。

 世間に苦の種が無ければ心の苦は生じませんが、たとえ世間に苦の種があっても脳と心にこれを生ずる二つの縁が無ければ、苦は生じないのです。
 苦は他作でもなく自作でもなく、世間の色と、心の縁によって作り出されます。
このことを正しく知っていれば苦楽の縁を変えることが出来ます。
正しい縁起の法の順逆の思惟は、解脱の智慧を確立し解脱に向う道になると説かれています。

迦葉は説法によってどうなったか 

佛此の經を説かせ已り給ひしに、阿支羅迦葉、遠塵離垢し法眼淨を得。
時に阿支羅迦葉、法を見、法を得、法を知り、法に入る。
諸の狐疑を度り、他に由らず知り、他に由らず度し、正法律に於て心無畏を得。
合掌して佛に言して白さく。 「 世尊。我今已に度せり。我今日從り佛に歸依し、法に歸依し、僧に歸依し、壽を盡すまで優婆塞と作らん、我を證知したまへ」と。
阿支羅迦葉、佛の所説を聞きて歡喜し隨喜し、禮を作して去りぬ。

お釈迦様のここまで説法を聞いて阿支羅迦葉に起きたことが羅列されています。

① 遠塵離垢し、  世間や自分の心の塵から遠ざかり垢(けがれ)を離れて、
② 法眼淨を得、  心の動きを見る清らかな眼を得、
③ 法を見、    心の動きを見ることが出来、
④ 法を得、    正しい心の動き方を身につけ、
⑤ 法を知り、   正しい心の動かし方を知り、
⑥ 法に入り、   正しい心の動きに住し、
⑦ 諸の狐疑を度り、  三世にわたる因果と苦の生起についての疑惑から救われ、
⑧ 他に由らず知り、  他から教えられなくても自分で知り、
⑨ 他に由らず度し、  他に依らず自分で救われ、
⑩ 正法律に於て心無畏を得。  正しい心の動かし方と正しい実践律によって畏れの無い心を得ました。「無畏を得」は覚りを得たことを示しています。

阿支羅迦葉は心の動き方についての正しい智慧を獲得し無畏を得たのです。

 阿支羅迦葉は、すでに救われたことを申し上げ、お釈迦様に帰依しお釈迦様の在家の弟子にして貰います。
お釈迦様に通りがかって教えを受けた在家の人、阿支羅迦葉でさえ、このように解脱に向ったのです。

 私達もこの教えを理解すれば同じ様になれるとは思われませんか。

迦葉のその後 

時に阿支羅迦葉、世尊より辭し去りて久しからざるに、犢牸を護れる牛に觸殺される所と為りぬ。命終の時に於て、諸根清淨にして顏色鮮白なりき。

時に阿支羅迦葉は、お釈迦様の所から辭し去って余り日が経たないうちに、赤ちゃん牛を護って動く牛に觸れて殺されてしまいます。けれども命終の時に迦葉は、心も身体も清らかであって、顏色もあざやかでさわやかでありました。

 この経典にはどうしてこの様なことが記されているのでしょう。
経典の作者はこのことをどうしても伝えたかったのです。
 苦がどの様に作られるかについて、お釈迦様の説法を受け理解した阿支羅迦葉は、赤ちゃんを護っている牛に触れて命を落としても、このことが苦と為らなかったのでしょう。
命終の姿は清らかで晴れ晴れしていたというのです。
 苦の縁を生じない心のあり方を説いた説法を受け、これを身につけた人は、一見極大の苦しみの様に見えることであっても苦を生じないで、さわやかであるのです。

 ここからはお釈迦様がこの話を聞かれて弟子達に語っておられるテキストです。
長文ですが敢えて全文を掲載します。

爾の時世尊城に入りて乞食したまへり。時に衆多の比丘有り。亦た王舍城に入りて乞食しぬ。傳へ説くもの有るを聞きぬ。
「阿支羅迦葉世尊從り法を聞きて、辭し去りて久しからずに、牛の觸殺する所と為りぬ。
命終の時に於て、諸根清淨にして、顏色鮮白なりき。」
諸の比丘、乞食し已りて還り出で衣鉢を擧げ足を洗いて、世尊の所へ詣り稽首し足を禮したてまつりて、退きて一面に坐して佛に言して白さく。
「 世尊。我今、晨朝に衆多の比丘城に入りて乞食し、阿支羅迦葉、世尊從り法律を聞き辭して去りて久しからずして、犢を護る牛に觸殺される所と為ると聞く。
命終の時に於て、諸根清淨にして顏色鮮白なりき。
世尊。彼は何の趣に生じ、何處に生を受けん。彼は何を得ける所なる。」
佛、諸の比丘に告げ給はく。 「 彼は已に法を見、法を知り、法に次い、法に於て受けざり、已に般涅槃す。
汝等當に往きて其の身を供養すべし」と。
爾の時世尊、阿支羅迦葉の為に第一の記を授けたまへり。
              雑阿含経 一一八七六 阿支羅経より

お釈迦様は阿支羅迦葉の命終をお聞きになって、阿支羅迦葉がニルバーナを得たことを弟子達に告げられます。

「彼は已に法を見、法を知り、法に次い、法に於て受けざり、已に般涅槃( はつねはん)す。」 と説かれています。
 すでに心の動きが見え、心の動きを知っており、心が動き出しそうな場面であっても動き出すことが無く寂静を保ち、すでに般涅槃しているというのです。

 そしてさらに

  爾の時世尊、阿支羅迦葉の為に第一の記を授けたまへり。 

という。すなわち阿支羅迦葉は弟子達の中でそのことに於いて一番勝れた存在であるという名誉のお言葉を授けられました。

苦楽の縁を変えるには 

この経典から、苦楽の縁を変えるにはどうすれば良いかが見えてきます。
苦楽は縁起の法にしたがって生ずるのです。
 心はどうして苦しいと感じるのか。欲と 愛(タンハー)に執着していて、この愛(タンハー)が満たされないからです。

 世間から苦しいことがやってこなければ苦は生じないのかも知れません。 でもどんなに苦しいことがやって来ても脳に三事和合による触が起きなければ脳と心に苦の情報が取込まれることはありません。

① つまり三事和合が起きるときには記憶の質が関わっているのす。記憶の質が変われば世間からの情報が苦であるかどうかが変化してきます。 記憶が苦しいと判定しなければ苦にはなりません。
② 欲と愛(タンハー)による求める心が消滅するか、愛(タンハー)に執着する掉慢無明が捨離されれば、苦を生じる「行(ぎょう)」が起きることはなく、苦を育てる縁は生じません。

 ここに苦楽を生じる縁を変える秘訣があります。

① その第一は記憶の質を変えます。
  正しい梵行によって、いままでにない新しい記憶を蓄積します。
② もう一つの縁を変える作業は、我欲をなくし有結と愛(タンハー)をなくすことです。欲と愛(タンハー)によって表面意識に大乗仏教でいう貪瞋痴が生じてしまいます。
 我欲と愛(タンハーを動かなくし滅盡するのです。 我欲と愛(タンハー)に執着する掉慢無明を捨離することも大切です。

 自分の持っているこの二つの条件(縁)を変えるのです。
といわれても困ってしまうかも知れません。このことは解脱の作業そのものであるからです。掉慢無明を捨離することは執着をなくすことであるので、ものごとにこだわらずサラリと捨離すれば効果があがるでしょう。我欲と愛(タンハー)に対処するには五巻の「仏陀に学ぶ脳と心」を参考に工夫を重ねることになるかも知れません。けれども恚(い)りや、ひとのえねるぎーを削る害心となって表れているのなら、これを出さないようにすることから始めます。特に害心は人間が猿であったときの名残りです(不満を言う、人を責める、嫉妬する、威張る、馬鹿にされた、自分を偉く見せたいなど)、気がつかずに出しっぱなしにしていることが多いのです。これに気がついてここから変えるのが効果的です。

 もし自分が所属している世の中を変えることが出来れば苦を生じる縁も変わるでしょう。
 世の中を変えられない場合には、自分を変えれば縁が変るのです。

 自分を変えただけでは世の中は変らないのでしょうか。自分を変えれば世の中に向っての自分の行動が変ります。これによって変ってくる世の中もあるのです。
「自分の心の縁によって世の中そのものも変ってくる」、このことも実践を重ねるうちに経験することが出来るでしょう。

 このお釈迦様の智慧を学んで良い縁を得て、明るく楽しい幸せな道を歩みたいものです。

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