解脱の修行は難しいという声を頂くことがあります。管理人も然りで、そのように感じる時期がありました。それに対する、阿山師のメッセージをご紹介しましょう。
『道を知る3』平成30年3月15日(改訂3月18日)に「須陀洹、斯陀含、阿那含への取り組みは、それぞれの脳と心の状態を知っていれば、難しくはありません。阿那含を越える境涯は、我(が)を無くし、慈愛のエネルギーを増やすことにつきます。」とあります。
阿山師の仰る「脳と心の状態を知る」とはどういうことなのでしょうか。『仏陀に学ぶ脳と心 第一巻 聖者への梯』阿山恭久著から、「盡智経(尽智経)」解説をご紹介します。「ひの出版室HOME」に『慚愧経』がありますが、この慚愧経も尽智経と同じく、初心者の修行者が阿羅漢・仏陀に至る階梯を、分かり易く説明したものです。
二十四の修行の段階 盡智経より 『仏陀に学ぶ脳と心 第一巻 聖者への梯』118頁
修行によって成就する心の段階を、違う切り口から説いたテキストに盡智経があります。盡智経は修行の入り口から完成までに達成される二十四の段階を示しています。修行が進むにつれて、それぞれの段階で獲得する心の技術が解説されています。
修行をしている私たちは、ある日突然修行が成就して目的地に到達すると期待していることがあります。けれども、お釈迦様はいくつもの阿含経の中で、修行は一段階ずつ着実にステップバイステップ、階段を登るように進んでいく、と説いておられます。
小さな一段がある日突然成就することがあっても何段階も一度に進むことはないのです。修行が進んでいる時には日々心の状態が変化しているのを感じることができるものです。この変化を感じながら修行を進めることはとても大切なことです。
修行を励みあるものにし、修行に喜びを見つけて進めてゆくには、自分の心が変化してゆくのを見ていることが必要と思います。
さあ、尽智経の二十四段階を箇条書きにしてみました。順番に見てゆきましょう。
① 善知識に奉事す
盡智経の修行の入り口の第一段階は、「善知識に奉事す」と説かれています。
「善知識」とは、心解脱の修行の進め方、解脱したらどういう心の状態になるか、心解脱に必要な智慧、すなわち心の構造と心を変えるプロセスについてよく分っている人を言います。
修行の第一歩は、このよく分っている人の傍にいてお手伝いをすることから始まります。お釈迦様の修行は自分一人で進めてゆくのはなかなか難しいのです。どうしても善く分った人の傍にいると得られる、ひとりでに心に伝わってくるエネルギーのようなものが必要なのです。
善知識に奉事する功徳について阿含経のテキストでは次のように解説しています。
「未だ聞かざるは聞き、巳に聞けるはすなはち利す。」
まだ聞いていないことを聞くことができ、既に聞いていることは、それを修行の役に立つようにすることができるという。これが善知識に奉事する一番の意義だというのです。
善知識に奉事するには、素直で謙虚な心が必要です。善知識を心から敬愛恭敬していなければなりません。この議虚で素直な心が全ての「心を変える作業」の出発点であるのでしょう。
② 往詣す
心解脱を求めて修行者が集まっている場所、道場やお寺などに繰り返しお参りします。ここでも、淡々と無条件に繰り返し繰り返しお参りする、そういう心が求められていす。
③ 善法を聞く
心解脱に役に立つ善い話や善い方法を聞く場に居合わせることが出来るようになります。居合わせて聞いていてもその内容はまだ耳に入ってくることがありません。
④ 耳界す
先達や、修行の仲間の話が耳から入ってくるようになります。最初の頃は耳から入ってきた言葉があっても、その意味を理解することができないでいます。
⑤ 法義を観る
耳から人ってきた心解脱のための智慧の意味が解るようになります。
⑥ 法を受持する
心解脱のための智慧のプログラムを覚えて心の中に持ち続けているようになります。
⑦ 法を翫誦する
繰り返し繰り返しこの智慧のプログラムを心の中で唱え、そのイメージを求めて反芻します。この段階はとても大切な段階です。
これをやっている間に解らなかった法のイメージが正確に湧くようになってくるのです。阿含経のテキストは表面的に解るようになったつもりになりがちですが、毎日毎日同じテキストに触れている間にその神髄に近づいて次の段階の「法忍を観る」がやってきます。この部分の実践が正に法を理解する最大のボイントです。
⑧ 法忍を観る(法とは苦、老死から無明を指す 涅槃経)
心解脱の智慧がどのように心を変えるのかを観ることが出来るようになります。
このテキストで「法」と言っているものは何か。
涅槃経のテキストを見ると、「法とは苦、老死から無明を難す」と説かれているのを発見できます。すなわち縁起の法十二因縁のことで、ここでは「心が苦しみを苦しみと感じる、その心の構造、仕組み。苦しみがどのように生じどのように大きく育ってゆくか」を指していることが分かります。心の構造、仕組みだけではなく、心を変える方法も含まれています。
⑨ 信
心の構造と心を変える智慧を理解できるようになると「信」が確立します。「信」とは何についての信でしょう。「お釈迦様のお説きになったこのやりかたを実行すれば必ず心の解脱を得ることができる」、この信です。
心が解脱を獲得してゆく仕組みについて理解できれば、その智慧を使って問違いなく解脱への信を獲得することができる。このテキストではこのことを「苦を習ヘばすなわち信あり、」 と表現しています。
苦とは、「苦しいことを苦しいと感じる心の仕組み、苦が生じる原因、苦が減してゆく仕組み、苦を越してゆく方法」 すなわち四諦のことを指しています。この方法を実践していれば確かに心解脱が達成できると、そのプログラムとその仕組み、すなわち理論的な道筋がわかって、初めてその道を懸命に歩むことが出来るとお説きになっているのです。
ここまでの修行の段階は 「心を変えてゆく仕組みを理解するお釈迦様の智慧を獲得すること」であるということが分かります。この智慧を使って、ここからの修行である戒を護り、定に入る段階へと進んでゆきます。修行は、お釈迦様の智慧を理解することから始まるのです。
⑩ 正思惟
「正思惟」とは正しく考えを巡らすことですが、何が正しいというのでしょうか。
「信」によって心の中に確立されたもの、すなわち、苦の成り立ちと、どうやったら苦から脱することができるか、その方法を理解して「ものごと」について考えを巡らす、これを正しく思惟するといいます。心の動きを観察して正しい考え方に基づいた動きであるかどうかをチェックし思惟する。心を見つめ観察する修行の最初のステップです。
⑪ 正念正知
正念とは正しく心を向けて観察すること。何を観察するかというと、自分の身体と心を観察します。正知とは、正念によって観察した結果、正しく心の状態を知ることをいいます。
「正念正知」は「正思惟」を使って観察に行った時に初めて実現します。心の動きが善い動きであるかどうか、苦であるか、苦を生じる種になっていないか、いつも正確に心の状態を知っていなければなりません。
⑫ 護諸根
護諸根は戒を護るために必要な前段階です。
「感覚器官である眼・耳・鼻・身・意から脳に送られてくる情報」と「過去の記憶」が照合されて、執着や様々な心癖による心の動きが起きてくる、これを防ぎ、このことが起きても出来るだけ速やかにその動きが無くなるように制御します。
「正念正知」によって正しく心の状態が分かって初めて護諸根を行うことができます。
⑬ 護戒
ここまできて、やっと戒を護ることができるようになります。
護諸根によってしっかりと心を制御出来るようになっていないと、戒を護ることが出来ないのです。戒が護れるようになるまでに十二の段階がありました。
私たちはいきなり戒を護ろうと思って悪戦苦闘します。私はこの悪戦苦闘してみることも必要ではないかと思うことがあります。ここまで来るのに十二の段階を説かれたお釈迦様の法をよく理解できるようになると思うからです。
⑭ 不悔
戒を護っていれば後悔することがありません。
⑮ 歓悦
後悔することがなくなると、心の中が歓悦で一杯になります。
⑯ 喜
そして喜びで一杯になります。ここで一杯にと言っているのは、喜び以外の心の動きがなくなって、ただ喜びだけが心の中に存在していることを言います。
「歓悦」と「喜」はどう違うのでしょうか。両方ともよろこびをあらわす言葉ですが二段階に分けて説いてあるということは、この二つが違う種類のよろこびであるはずです。
白川静先生の「字通」を開いて文字の意味を調べてみましょう。
「歓」 この文字は鳥が声を発する形を現している。声を発して祈る祈祷が成就してよ
ろこび楽しむ意。
「悦」 は人が祝詞を入れた祭器を神に捧げている形。
祝詞をあげている祝の上に神気が彷彿として下り、祝が慌惚の状態になる意。
よろこぶ、たのしむ。
「喜」 神に祈るとき鼓をうって神を楽しませる意。
よろこぶ、たのしむ。もと神が喜楽することをいう。
(白川先生字通による管理人注:「もと」は、「もともとは」の意です。「喜はもと神を楽しませ喜ばせるために太鼓をうって祈るの意味であった。のち人の心の上に移して、喜は「よろこぶ、たのしむ」の意味となった」とあります。)
歓悦は神への祈りが聞き届けられた神気を感じて心がよろこぶ様。
すなわち戒を成就 して心が寂静になった状態を感じ心がよろこぶ様子を表す。
「喜」は神のみこころにかなう所作をなして神がよろこぶ様。
すなわち戒を護ることが完成して人間が動物として自然に備わっている喜びを発生する仕組みが動く。別の言葉で表現してみるとハードウェアのよろこびであるといえます。
この「喜」は心解脱を達成してゆくときにとても大切な役割を果たすもので、第十一章で再度ふれます。この二つのよろこびについてはもう少し言葉を尽くして阿含経の他のテキストでの使われ方を引いて解説することが必要でしょう。実際にはここでの表現より、もっとはるかに深い喜びの姿をイメージしておくのが良いと思います。
「歓悦」 と「喜」は他の阿含経のテキストでは順序が逆になっている場合があります。
この点もご承知おき下さい。
⑰ 止
心と身体が、軽やかで安らかになり、その状態のまま続いていること。
別のテキストでは「軽安」と表現されているものです。
また別のテキストでは「心身猗息す」と表現されています。
⑱ 楽
「覚受楽し」といって、感覚器官から脳の中に入ってくる情報がすべて楽しいものになります。苦しいと感じることがなくなっているのです。
⑲ 定
心の中に動いているもの、欲や怒りや不満や不安苦しみなどが全くなく、一つの心だけで静止している状態をいいます。
⑯から⑲の段階は、喜止楽定といって心が寂静に近づいて行く四つの段階です。
⑳ 見如実・知如真
「実の如く見、実の如く知る」、心の中をありのままに見、ありのままに知ることが出来るようになります。
これまではよく見えなかった前世との関わりがこの段階から見えるようになります。
ここまでで涅槃に向うのに必要な修行の条件が全て整いました。
㉑ 厭
㉒ 無欲
㉓ 解脱
厭、無欲、解脱は、心の三つ の世界に対する心解脱を完成させる最終段階です。
ここでは行うべき作業がはっきり分っていて、これを常住坐臥実践し続ける。
これが出来るようになると、最終段階が近づいてきます。
㉔ 盡智
心解説の最終ステップ盡智では、心の中に苦が全くなくなって、寂静の状態が完成していることをはっきりと分るようにになります。
ここまで二つの阿含経のテキストを参照して、心解説の修行を進めて行くと、どのような段階を経て心が変わって行くかを見てまいりました。私はこれらのテキストに触れていても、長い間その本当の意味を理解することが出来ないでいました。読者の皆さんもそうかもしれません。これから、沢山の阿含経のテキストに触れて行くうちに、必ずお解りになってこられると思います。ここにその段階が示されているテキストが存在しているということを知っているだけでも大きな意義があるのです
ところで、蓋智経の修行の二十四段階のうち、最初から九項目までは、どのようにして智慧を獲得してゆくか、を説いたものでありました。九つの段階をもう一度整理してみますと、
① 善知識に奉亊す
② 往詣す
③ 善法を聞く
④ 耳界す
⑤ 法義を観る
⑥ 法を受持する
⑦ 法を翫誦す
⑧ 法忍を観る(法とは苦、老死から無明を指す 涅槃経)
⑨ 信(苦を習へばすなわち信あり。)
となっています。修行は、お釈迦様の説かれた心解脱のための智慧を獲得することから始まることが分ります。ここに記されいる九段階は、当たり前のことのように感じてさっと通り過きてしまいそうですが、この部分にも結構エネルギーが必要です。
特に自分のものの見方は正しいという思い込みが強い人や、人を敬愛する気持ちの薄い人は達することが難しいのです。いつも素直に、謙虚に心を向けて行く姿勢が大切です。
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