尊者阿那律 神通を語る
雑阿含経一二二〇八 目連所問経より
平成26年8月28日 阿山恭久 記す A
尊者阿那律は天眼第一と称されるお釈迦様の十大弟子の一人です。
天眼第一とは三明六通のひとつである天眼通に、弟子達の中で第一の力を持っているのです。
この経典では神通第一と称される尊者大目犍連が天眼第一の尊者阿那律に質問しています。
「どのような功徳ある修行をして大神通力を得たのですか」と。
尊者阿那律はどんな修行をしたのでしょうか。
私達も為すことが出来る修行でしょうか。
(タイトル以外の太字の部分は 国訳一切経印度撰述の部阿含の部 大東出版社 から引用しています)
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目連所問経
それでは雑阿含経一二二〇八(五三八)目連所問経を参照します。
雑阿含経一二二〇八(五三八)目連所問経より
是の如く我聞きぬ。一時佛、舍衞國祇樹給孤獨園に住まり給へり。
尊者舍利弗、尊者大目犍連、尊者阿難、尊者阿那律も舍衞國に住まれり。
爾の時、尊者大目犍連、尊者阿那律の所へ詣でて、共に相問訊し慰勞し已りて一面に於て坐しぬ。時に尊者大目犍連、尊者阿那律に問はく。
私はこのようおに聞きました。あるときお釈迦様は舍衞國祇樹給孤獨園に滞在しておられました。尊者阿那律はお釈迦様の十大弟子の一人で「天眼第一」と称される大神通力を身につけていました。あるとき舍衞國に、智慧第一と称される尊者舍利弗、多聞第一と称される尊者阿難、そして神通第一と称される尊者大目犍連が集まっていました。
尊者舍利弗、尊者大目犍連、尊者阿難、尊者阿那律も揃って舍衞國に滞在していました。
その時、尊者大目犍連が尊者阿那律を訪問して、共に挨拶を交わして並んで坐っておりました。尊者大目犍連は尊者阿那律に質問しました。
神通第一の尊者大目犍連が天眼第一の尊者阿那律に質問します。
尊者大目犍連だから可能な、的を突いた質問です。
何をして神通力を得たか
「何の功徳に於て修習し多く修習せば、此の大徳神力を成ぜる」と。
尊者阿那律、尊者大目犍連に語るらく。
「どのような功徳がある修行を修習し多く修習して、天眼第一と称される大きな徳ある大神力を成就したのですか」と。
尊者阿那律は尊者大目犍連に語りました。徳ある大神通力が身についているのは、いったいどんな修行の功徳によるのですか、と質問しています。
「我、四念處に於て修習し多く修習し、此の大徳神力を成じたり。
「私(尊者阿那律は、四念處に於て修習し多く修習して、この大徳神力を成じたのです。あっさりと言われてしまいました。四念處を修したのだという。
問題は四念處です。四念處を修するとどの様な徳があり、どの様に変化するのでしょうか。」
四念處とは
何等をか四と為す。
内身の身觀に心を繋げて、精勤方便して正念正知に住し、世間の貪憂を除き、外身・内外身・内受・外受・内外受・内心・外心・内外心・内法・外法・内外法の觀に心を繋して住し、精進方便して世間の貪憂を除けり。四とは何を四とするのでしょうか。さて、四念處とは何か。
内身の身觀に心を繋げて、精勤(努力し四正断を実践)し、方便(様々に工夫)して正念正知に住し、世間の貪憂を除き、外身・内外身・内受・外受・内外受・内心・外心・内外心・内法・外法・内外法の觀に心を繋して住し、精進方便して世間の貪憂を除いたのです。
この頁では四念處を解説するのが目的ではないので、四念處については、
「仏陀に学ぶ脳と心 第四巻と第五巻」を参照して頂くことにします。
しかしこれだけでは余りにさびしいので、雑阿含経独一経にある四念處についてのテキストの一部を引用しましょう。四念處を楽(ねが)ふとは、
心に身を縁じて正念に住し調伏して止息し寂静にして一心増進す。
このテキストについても解説は「仏陀に学ぶ脳と心第四巻」を見て頂きたいと思いますが、ひと言で表すと、 「心の寂静」を求めるのです。
もう一つ大切なことがあります。「住す」というのです。
瞑想や密教の修行のように行じている間だけでなく日常生活の間ずっと心の状態が続いているのです。いわゆる不放逸が求められています。是れを四念處を修習し多く修習して、此の大徳神力を成じたりと名づく。
これを、四念處を修習し多く修習して、この大徳ある大神通力を成就したと名づけます。へえ! 四念處を修行したから天眼通を得たのですね、と感心するだけでは何もなりません。
どうして四念處が神通力を生ずるかを分からなければなりません。
四念處は心の散乱を断滅し心を寂静にします。
凡夫は世間を欲と愛(タンハー)によって観察しています。そのため世間のありのままの姿が心に入ってこないのです。寂静の心によって正しい真の姿が見えるようになる、これが神通力を得る所以だと思われませんか。
尊者阿那律が得た神通力
ここから尊者阿那律が得た大徳神通力はどのようなものかが語られます。
「千の須彌山に於て、少方便を以て悉く能く觀察すること、明目の士夫の高山の頂に登りて下の千の多羅樹林を觀るが如し。是の如く我四念處に於て修習し多く修習し此の大徳神力を成じ、少方便を以て千の須彌山を見たり。
是の如く尊者大目犍連、我れ四念處に於て修習し多く修習し此の大徳神力を成じたり」と。「千もある須彌山(インドで説かれている非常に高い山々)を、少しだけ方便(工夫努力する)ことによって、広い範囲をことごとくよく觀察することができるのは、良く見える眼をもった人が、高い山の頂に登って下を見ると千もある多羅樹林(たらの樹林)を一つ一つはっきりと觀る様なものす。この様に私(尊者阿那律)は四念處に於て修習し多く修習してこの大徳神力を成じており、少し工夫努力すれば千の須彌山までことごとく見ることが出来るのです。
このように尊者大目犍連よ、私は四念處に於て修習し多く修習してこの大徳神力を成じました」と。時に二正士、共に論議し已って各座より起ちて去りにき。
雑阿含経一二二〇八(五三八)目連所問経より時にふたりの大先達は、この様に共に論議しおわって各々座より起って去りました。
まとめ
神通を語る 終り尊者阿那律が得た天眼通について阿難所問経には次の様に記述されています。
是の如く尊者阿難、四念處に於て修習し多く修習し、少方便もて浄天眼の天人眼に過ぐるを以て諸々の衆生を見、死の時、生の時、好色悪色、上色下色、善趣惡趣に、業に随って生を受くるを皆実の如く見たり。
この様に尊者阿難よ、四念處に於て修習し多く修習して、少しの工夫によって人の眼を越えた浄らかな天眼を以て諸々の衆生を見れば、死の時、生の時、好色悪色、上色下色、善趣惡趣に、業に随って生を受けている姿を、皆、実の如く見ているのです。
またさらに、
四念處に於て、修習し多く修習せば、此の大徳大力神通を成じて、
諸の衆生の死の時生の時の善趣惡趣を見るに、是の如き衆生は身の、惡行口意の惡行もて賢聖を誹謗せし邪見の因縁によりて、地獄の中に生じ、是の如く衆生は身の善行、口意の善行によりて賢聖を謗らざる正見の因縁により、身壞命終して天上に生ずるを得。四念處に於て、修習し多く修習すれば、この大徳大力神通を成じて、阿難経にはこのように天眼通の力について記述されています。
諸の衆生の死の時生の時の善趣惡趣を見にゆくと、
この様な衆生は身の惡行、口意の惡行によって賢聖を誹謗した邪見の因縁によって地獄の中に生じ、
この様な衆生は身の善行、口意の善行によって賢聖を謗らなかった正見の因縁によって、身壞命終して天上に生れることを見ることが出来るのです。大徳神通力であっても、四念處を多く修して心の寂静を得れば到達することが出来ると説かれていました。
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