色は我に非ず ひの出版室

 

色は我に非ず 

 四次元の無常観を理解する

 雑阿含経(八七) 非我経より

平成27年3月12日 阿山恭久記す(平成29年5月19日改訂B.)

「色は我に非ず」は解脱に向かうために必要な大切な概念です。「色」すなわち脳内で動いている情報と「我」との関連を正しく把握するのです。このことは我中心のものの見方「我(が)」を知ってこれをなくすことに繋がりますが、実際にこの感覚を身につけるのは思いのほか難しいのです。非我経ではこのことを色についての智慧を使って成し遂げようとしています。

 仏陀の智慧それは、人間の脳はどの様に動いているか、をテーマにしたものです。
 この智慧の中で大切なテーマの一つが「我」です。脳の中で動いている情報「五蘊」と「我」との関係が問題なのです。「色は我に非ず」と並ぶもう一つ大切な観点は、色すなわち五蘊についての無常観です。本ページでは非我経から、時間変化に対する色の無常観を拡張し、四次元空間における色の無常観を理解しようとしています。

雑阿含経(八七) 非我経より

 この経典を理解するには仏陀の智慧の基本となるテーマについて知っていることが必要です。そのテーマを整理し、ひとつひとつの項目が「阿山恭久著 仏陀に学ぶ脳と心」の中で解説されている場所を示してあります。

① 六處。

眼・耳・鼻・舌・身・意、
色・声・香・味・觸・法、
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識

(お釈迦様の智慧を求めて 第二章第一節)

② 色と五蘊。

色・受・想・行・識。

(お釈迦様の智慧を求めて 第二章第三節)

(般若心経 第二章)

③ 三事和合。

眼と色と眼識の觸。

(聖者への梯 第七章)

④ 色に三種あり。

色、色陰、色受陰。

(お釈迦様の智慧を求めて 第二章第二節)

⑤ 色(五蘊)は、無常・苦・空・非我なり。

(お釈迦様の智慧を求めて 第二章第四、五節)

(般若心経 第五章)

 これらの色についての智慧をベースに、色が無常であり非我であることを理解します。 このページでは無常について、「色は時が経つと変化し滅する」と言う概念に対して、拡大された無常の見方を提案し、無常観を分かり易く理解しようとしています。

 この経典を理解するには、この他に「有結と愛(タンハー)」「身見」について分かっていることが必要です。

 (「身見」については 第一巻 聖者への梯 第十章 、「有結と愛(タンハー)」については 第五巻 掉慢無明を捨離す 第1部  などで取り上げています。)

それでは非我経を先頭から見てゆきましょう。

是の如く我れ聞きぬ。一時佛、舍衞國祇樹給孤獨園に住まり給へり。 爾の時世尊、諸比丘に告げ給へり。

私はこのように聞きました。あるときお釈迦様は、舍衞國祇樹給孤獨園に滞在しておられました。 その時お釈迦様は、諸の修行者にお告げになりました。

色がもし苦なら

「色は是れ苦なり。若し色是れ苦に非ざるは、色に於て病有りて苦生ずるあるべからず。 亦た是の如くあら令めんと欲せず。是の如くあら令めざらんと欲せず。

「脳内で動いている情報、色は苦であると言えます。

もし脳内で動いている色が苦でないものば、この色が変化して(病を生じて)、愛(タンハー)の成就を邪魔し苦を生じるはずがありません。また色の姿が「この様になれ」と欲することもなく、また「このようになってはならぬ」と欲することもありません。

色是れ苦なるを以て、色是れ苦なるが故を以て、色に於て病を生じ、 亦た色に於て、是の如くあら令め、是の如くあら令めざらんと欲するを得。
受想行識も、亦た復た是の如し。」

「色の情報は苦であるから、また色の情報が苦となってしまうが故に、病すなわち愛(タンハー)の成就を邪魔する色を生じ、またこの色が」自分の思うようになれと欲し、この様になってはならぬと欲することになります。

受想行識についても同じ様にいえます。

 ここまでのテキストは、五蘊(色受想行識)は苦であるから、これを何とか自分の思うように変えたいと思うのだ、と説いています。しかし実際は色は「無常・苦・変易の法」なので、五蘊は我であるから自分の思うようになると思っていても、また我所(自分の思いを実現する場所)であると思っていても、この部分は実際には我ではないので自分の思うようには動かないのです。またこの色は生滅するので、もしこの色が我であるとすると、我は生き死にを繰り返すことになってしまい、色が我であるはずがありません。このように「色は我に非ず」を説いています。

 「色に於いて病を生じ」

 色が、 愛(タンハー)を実現しにくい形に変わってしまうこと。

色は無常・苦・変易の法なり

ここから色とはどのようなものかが解説されます。

「比丘。色は常と爲すや。無常と爲すや。」
比丘、佛に白さく。「無常なり世尊。」

「修行者よ。色は常ですか。それとも無常ですか。」
修行者は、佛に申しあげました。「無常です、お釈迦様。」

 色は無常である、すなわち変化し消滅してしまいます。

「比丘。無常なるは是れ苦にあらずや。」
比丘、佛に白さく。「是れ苦なり世尊。」

「修行者よ。無常であるもの、これは苦ではありませんか。」
修行者は、佛に申しあげました。「これは苦です、お釈迦様。」

 色が例えその時は苦でなくても、色は無常であるので時とともに変化し、また消滅してしまいます。色が苦でないのは愛(タンハー)を満足するからですが、この満足している状態は、世間の色も脳の中の色受陰も変化し消滅してしまいます。満足している状態から変わってしまうのは苦なのです。全ての色は無常であるが故に苦となってしまいます。

「比丘。若し無常、苦なれば是れ變易の法なり。

「修行者よ。もし無常、苦であればこれは變易の法ですね。

 色は無常であるから苦であり空であるという。

 変易の法とは、実際に脳の中で動いている色受陰の情報は世間にあった時の色とは全く違う実際には存在しない姿となっていることを示しています。すなわち色は実際には世間に存在しない形「空」であるというのです。

多聞の聖弟子は身見の見方をしない

ここから急に多聞の聖弟子に限定したものの見方が説かれます。

多聞の聖弟子、寧ろ中に於て我、我と異り、相在すと見るや否や。」
比丘佛に白さく。「不也り世尊。」

多聞の聖弟子は脳の中で動いている無常・苦・変易の法である色の情報に、この色が、我と同じものである、我と異なるものである、相在す(重なり合っている)、と見るだろうか」。修行者はお釈迦様に申し上げました。「そのように見ることはありません、お釈迦様。」

「色は我、我と異り、相在す」、このように見ているのはいわゆる「身見」のものの見方の出発点です。世間からの情報である色について、先ず自分との関わりを最初に見て、愛(タンハー)の実現に役に立つものであるか、邪魔するものであるかを判定し、我が利を求めて自分の行動を決めます。聖者の第一段階である須陀洹になると、この身見によって自分の行動を起こすことがなくなります。

(身見については「「仏陀に学ぶ脳と心 第一巻」をご参照下さい。)

「受想行識も亦た復た是の如し。」

受想行識についても色と同じ様に無常・苦・変易の法であり、多聞の聖弟子は身見の見方をすることがありません。

色陰はどのように無常か 四次元の無常観

 ここからは「色は三種有り」のうち「色陰」について論じています。世間の情報と過去の記憶の情報を照合し一致すると(三事和合を起こして)色陰となり脳に入ってきます。この脳に入ってきた最初の情報、色陰はどのような性格を持っているかを伝えています。

「是るが故に比丘。諸の所有る色は、若しくは過去、若しくは未來、若しくは現在、 若しくは内、若しくは外、若しくは麤、若しくは細、若しくは好、若しくは醜、若しくは遠、若しくは近、彼の一切は我に非ず、我に異なり、相在さずと、實の如く觀察す。受想行識も亦た復た是の如し。

色の情報は無常・苦・空・非我であるから修行者よ。諸々の脳の中に存在している色陰は、

若しくは過去、 あるときはそのものの過去の姿を捉えたものであり

若しくは未來、 あるときはそのものの未来の姿を捉えたものであり

若しくは現在、 あるときはそのものの現在の姿を捉えたものであり

若しくは内、  あるときはそのものの内部の姿を捉えたものであり

若しくは外、  あるときはそのものを外側から見た姿を捉えたものであり

若しくは麤、  あるときはそのものを粗っぽく大まかに捉えた姿であり

若しくは細、 あるときはそのものを細かい部分を捉えた姿であり

若しくは好、 あるときは自分にとって好ましい部分を捉えた姿であり

若しくは醜、 あるときは自分にとって好ましくない醜い部分を捉えた姿であり

若しくは遠、 あるときは遠くから全体を見た姿を捉えたものであり

若しくは近、 あるときは近くから見て、部分を大きく捉えた姿である。

色陰の情報は、物事を一面から捉えた情報が脳に入ってきたものであり、また全ての色陰は、「我に非ず、我に異なり、相在さず」と實の如く觀察しています。受想行識についても亦た復た同じ様に実の如く観察しています。

 脳に入ってきた世間のものごとの情報は、愛(タンハー)の要求と、脳に集積されている記憶の質と姿に合わせて、もとの姿・形を一面から捉えたものです。すなわち脳に入った情報はすでに元の形をそのまま表しているものではないというのです。

 私(著者)はこのことを「四次元の無常観」と名づけています。

 脳に捉えられた色陰の情報は、ものの一面を表したものにすぎず、どのようにでも変化する、すなわち無常であって変易したものである、と示されています。

 このように色陰の一切はものの一面を捉えた変易した無常・苦・空なる情報であるので、この色に我・我所を見ても思うように動くことはなく、色陰によって我が利を求めても無駄なのです。多聞の聖弟子はこの情報は常に「我に非ず、我に異なり、相在さず」と見て色陰と我との関連を見に行くことはなく、色陰を一面的に見た無常の情報であると實の如く觀察しています。このように全ての色陰にたいして我中心の見方をすることがありません。

 受想行識も亦た復た同じ様に言えます。

色に於いて解脱を得

多聞の聖弟子は、色に於て解脱を得、受想行識に於て解脱を得。
我、彼は生老病死憂悲惱苦純大苦聚を解脱せりと説く。」

このように無常・苦・空・非我のものの見方をする多聞の聖弟子は、世間からやって来た情報、色受想行識 において、この私のものの見方は正しい、勝れていると主張する「我(が)」から解脱しています。私(お釈迦様)は、この「我(が)」から解脱した人は、生老病死憂悲惱苦純大苦聚を解脱していると説きます。

 多聞の聖弟子は、脳内にある色陰はものの一面を捉えたものであり無常であると如実に観察しています。 また我が身の利を求めて観ずることがなく「我(が)」を滅しています。この人は世間の物事に心が反応して動き出すことがなく、色陰によって生老病死憂悲惱苦純大苦聚、すなわち悩みや苦しみを生じることがありません。この人のことをお釈迦様は、世間の出来事から解脱していると説かれています。

まとめ

 「色は我に非ず」、脳と心で動いている情報は自分のものの見方が正しく勝れていると主張するいわゆる「我(が)」が滅していれば、世間の出来事が我の偉さと関わりがあるとみることがなく、苦や悩みを生ずることがありません。色の無常・苦・空・非我についてこの経典に示されているように如実に観察しているのです。

 「この様なものの見方をしていたのでは損ばかりして、自分の得になることがない。」と思いませんでしたか。「世間の出来事が自分の利に繋がるかを見に行かない」というのが「色は非我なり」が生み出す心の姿です。世間の出来事は、自分の利を求めようと求めまいと、因縁因果の法則の通りに動いてあるべき結論に到達してゆきます。自分の利を求めなくても成る可くしてものごとは成就します。この自然の理に任せた心の持ち方が、苦しみや悩みを生じないコツではありませんか。

       色は我に非ず 終わり

 

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