慈悲喜捨について(中村元博士 講談社学術文庫『慈悲』より)
5/6/2020 慈悲喜捨について(中村元博士 講談社学術文庫『慈悲』より)
「他人に対する暖かな思いやりと心からの同情心をもたなければならない。貧しい生活でも暖かな共感のただよっているところは、心ゆたかであり、楽しい。この心情を仏教では「慈悲」として説いている」(3頁)
5/8/2020 慈悲喜捨について(中村元博士 講談社学術文庫『慈悲』より)
「各宗教はそれぞれ自己の絶対性、完全性を主張して譲らない。そうして他の宗教を攻撃している。その当事者は真剣であろう。しかしそれを客観的通観的な観点から見るならば、どの宗教も他と対立している点では、相対的であるという運命を免れない。(19頁)」とし、
「そこで今の世の中では「宗教的」ということは偏執的と同義語のように解せられ、「宗教的」ということばさえも嫌われる。「宗教」と不合理なドグマとは不可分離だと考えられているからである。そうして一般世人にとっては、宗派の区別はどうでも良いことだと思われているし、宗教もどれでも良いという考えの人々が次第に多くなって来ている。無宗教を誇る人々も少なくない。
しからば宗教的なものがすべて排斥されるかというと、決してそうではない。浄土教徒であろうと、日蓮宗徒であろうと、キリスト教徒でも、天理教徒でも、心が清らかで性格が誠実であり、行いに偽りのない人はみな尊敬され、愛せられる。これに反して、品行の悪い坊さんや、闇ドルで儲ける宣教師などがもしいたならば、嫌われ、排斥される。その際にいかに聖典や聖書の文句を引いて来て、弁解してみても、社会通念がこれを許さない。
今日の人々がいずれかの宗教を選ぶ場合には、教理や教義によるのでなくて、それを奉じている人々の人格や生活に顧みる場合が多い。もはや聖典の権威は世間ではさほど通用しないが、心情・行いの純粋・誠実なることの権威は高く君臨している。それは根源的なものであり、聖典の権威はそれにもとづいて成立した第二次的・派生的なものに過ぎない。こういう事情は何も今に始まったことではなくて、原始仏教の興起したときにも同じであったし、他の国々で新しい宗教が興起したときには事情は大体同じであったろう。
ところで派生的・習俗的な権威でなくて、根源的な権威の底にはたらいているもの、それは純粋の愛の精神であり、仏教のことばで言えば慈悲である。(19~20頁)」
と述べておられる。まことに厳しい指摘である。宗教的なことが受け入れられるかどうかは、教団の教理や教義(ドグマ)によるのではなく、人によるという。まさにわたくし達一人一人の慈しみ満ちた思いやり、あふれるばかりの慈愛の念によってのみ、社会に受け入れられることが可能になるようである。
5/11/2020 慈悲喜捨について(中村元博士 講談社学術文庫『慈悲』より)
「およそ宗教的実践の基底には、他の人々のに対するあたたかい共感の心情があらねばならない。仏教では、この心情をその純粋なかたちにおいては慈悲として把握するのである。
慈悲とは「いつくしみ」「あわれみ」の意味であると普通に理解されている。ときには「他人に対する思いやり」「気がね」の意味に用いられることさえもある。たしかにいちおうそのとおりに解しても差し支えないが、われわれはさらに語源にまで遡って考えてみたいとおもう。
「慈」と「悲」はもともと別の語である。「慈」とはパーリ語metta 、サンスクリット語のmaitri(またはmaitra)という語の訳である。この原語は語源的には「友」「親しきもの」を意味するmitraという語からの派生語てあって、真実の友情、純粋の親愛の念、を意味するもとてあり、インド一般にその意味に解せられている。これに対して「悲」とはパーリ語及びサンスクリット語のkarunaの訳であるが、インド一般の文献においては「哀隣」「同情」「やさしさ 」「あわれみ」「なさけ」を意味するものである。(32~33頁)
「あたかも、母が己が独り子をば、身命を賭しても守護するがごとく、そのごとく一切の生けるものに対しても無量の(慈しみの)こころを起こすべし。また全世界に対して無量の慈しみの意(metta aparimana)を起こすべし。上に下にまた横に、障碍なき怨恨なき敵意なき(慈しみを行うべし)。立ちつつも歩みつつも臥しつつも臥しつつも、睡眠をはなれたる限りは、この(慈しみの)心づかいを確立せしむるべし。この(仏教の)中にては、この状態を(慈しみの)崇高な境地(brahuma vihara 梵住)と呼ぶ。(43頁)」という。」として四無量心にまで触れておられます。
中阿含経『思経』によれば「若し、是の如く慈心解脱を行ずること無量にして良く修する者あれば、必ず、阿那含を得、或はまた上を得」と説かれ、「慈悲喜捨」の四無量心を良く修したら阿那含あるいはその上、つまり仏陀・阿羅漢になりますということになります。いわゆる、慈悲喜捨は徳を積むこととされていますが、それに加え、解脱して阿那含を超え、阿羅漢になるという、修行法の一つであるということになります(『お釈迦様の智慧を求めて』182頁、『国訳一切経 阿含部 思経』参照)。
5/15/2020 慈悲喜捨について(中村元博士 講談社学術文庫『慈悲』より)
「修行者らよ、修行者が財宝に富むとは何ごとぞや。
修行者らよ、ここに修行者ありて、慈とともなる心を以て
一方に遍満してあり、
また二方・三方・四方に遍満してあり、
かくのごとく上・下・横・普ねく一切の処・一切の世界に広大・広博・無量にして
怨みなく害することなき慈心を以て遍満してあり。
悲とともなる心を以て。。。
喜とともなる心を以て。。。
捨とともなる心を以て遍満してあり。
修行者らよ、これぞ修行者が財宝に富むなり」(50頁)して、「四無量心」が修行法として説かれている。