現在、マインドフルネスの影響で、瞑想をしている方が多くなっているようです。最先端の企業であるグーグル、マイクロソフト等にも取り入れられ、日本でもYahooを始め多くの企業が取り入れています。
釈尊の「止(シャマタ(śamatha))」と「観(ビバシャナ(vipaśyanā))」の一部を切り出したものですが、釈尊は、『乗船逆流経」という雑阿含経の中で、瞑想へのアドバイスを行っておられます。阿山師は、その解説の中で、やり方を間違えると自らは正しいという「我」を強くして、瞑想を終わりやすく、「孤高の性格を作りやすい」というのです。
管理人も瞑想を行っていましたが、様々な衝動が沸き上がり、あまり良くないと感じたので、しばしお休みしていました。初期には、数息観のような呼吸法に限定して行えば、良いのかもしれません。
阿山恭久著『阿含経に学ぶ脳と心 第二巻 お釈迦様の智慧を求めて』より転載。
付記Ⅱ 修行の落とし穴
どうしても書き残してしまったことがある気持ちになってこの項目を書き出しました。
いわゆる心を変える作業を実践している人が陥りやすい落とし穴があるのです。
瞑想をする人も、座禅をする人も、密教の修行や修験の修行をする人も、同じようにこの落とし穴に落ちて精神の向上が停止してしまう、というよりむしろ修行をやっていない人よりも良くない性格になってしまい易いのです。
皆さんはこのような精神修行をしている人がかなりの率で陥ってしまった特徴のある傾向に気付いておられませんか。
この人たちは「我」が強いのです。自分が、自分のものの見方が、いつも正しく程度の高いものであると思い込んで、自分の周囲に主張してゆくのです。
自分の考えを主張し、人に押しつけ、周りの意見や新しい見解を取り入れようとしない。
常に自分が優れた存在であると周囲に主張し少しでも責められると、必死になって訳が分からないことをいいながら説き伏せようとします。
しかも、この人たちは自分ではこのことに気がつくことがないのです。
自分は協調的で皆と仲良くやっているから大丈夫だと思い込んでいます。
「我」をなくするために修行をしていたはずなのに、どうしてこんなことになってしまうのでしょうか。
雑阿含経に乗船逆流経というテキストがあります。
お釈迦様は修行に取り組んでいる人たちが、この落とし穴に陥りやすいのをお見通しで、この経典を私たちのために残してくださいました。
乗船逆流経
船に乗って川を上ろうとしているときに、流れに負けるとかえって川下の方に流されてしまうのと同じように、修行をして心の状態を向上させようとしているのに、心が精神の向上とは逆の方へ流されてしまう。
さあ、この経典を見ましょう。
瞑想の失敗
瞑想に失敗するのはどうしてか、ここから出発します。
.雑阿含経 乗船逆流経より
當に是の学を作すべし
ここで説く方法を、しっかりと身につけなければなりません。
「内に自ら観察思惟するに、心のに中に自ら有欲の相を覚するや不や」と。
心の内を自ら観察し思い巡らしたときに、人間が動物であった時代や過去世で満たされなかった思いから生じる、我が利を求める欲の想が心の中にあることを、自ら見つけて感じとることができるでしょうか、出来ないでしょうか。
ここではまず、「有欲の想を覚する」とはどういうことか。このイメージを正確に描くことがこのテキストを理解する出発点です。
欲というのは、「貪り、怒り、不満の心」を中心とする我が利を求めて動く欲の心の衝動を総称しています。自分が偉いのだという「慢」の心、自分の見解が正しいと主張する心、人を貴める心、嫉妬なども含まれています。
心を観察した結果、心に少しでもその動きが存在しているときには、「あるな」と感じ取って捕まえることが出来るでしょうか、あっても分からないままでいるのでしょうか。
若し覚せずんば當に境界に於て、或は浄相に於て、若し愛欲起らば遠離に違うべし。
もし見つけ感じとることが出来ないのなら、様々な場面で、特に浄相、すなわち 「私は清らかである・私は元気である・私は幸せである」など、現実の状態と関わりなくこのようなイメージを描いて瞑想しているときに、愛欲、すなわち満たされない思いからくる怒りや貪り不満など、我が利を求める欲が心の奥底から起きてくると、この欲の想から離れて清らかな心になり苦しみから離れたいという本来の目標とは違った状態になってしまいます。
この様に解説すると、「プラスの瞑想をしてはいけないのですか。」と質問されます。プラスの瞑想をするときには細心の注意が必要なのです。
プラスの厩想とは自分が穢れているにもかかわらず清らかであると膜想することなのでしょうか。穢れた状態であることを自分で認めた上で、現在の状態に落ち込んでしまわないで、清らかな方向へ向かう自分を作り出そうとする、これがプラスの瞑想であると思います。このニュアンスの違いによって、落とし穴に落ちてしまうかどうかが決まります。
ともかく、愛欲の心が少しでも起きてくるときにはうまくいかないのです。
譬へば士夫力を用いて船に乗り流れに逆ふて上るに
身小にして疲怠せば則ち倒還して流に順って下るが如く、
是の如く、比丘、浄想を思惟せば還て愛欲を生じ、遠離に違わん。
たとえば、男が手足の力を使って艪を漕いで、船に乗って水流に逆らって上流に向かって上っているときに、身体が小さくて、または疲れていて、怠けて漕ぐことが出来ないでいると、ひっくり返って流れに順って下ってしまいます。
このように修行者が浄想、すなわち浄らかなイメージを表面意識で描いて瞑想する時には、表面意識が消えてゆくに随って潜在意識にある満たされない思いや、我が利中心の欲の思いが表面に出てきます。その結果こういうイメージを消して苦しみから離れたいという、本来の修行の目的とは違った状態になるのです。
どうして良くない状態になってしまうのか、ここからその理由が説かれています。
是の比丘は学する時、下方便と修して淳浄を得ず。
この修行者は修学しているときに、表面意識から「私は浄らかなのだ・私は元気である・私は幸せである」などと働きかけていると、潜在意識の中にある清らかでない部分・元気でない部分・幸せでない部分などに直面して、表面意識と潜在意識が葛藤を起こします。この葛藤を解決するために、現在の状態(清らかでない・元気でない・幸せでない状態)を正当化する作業 「下方便」を行ってしまうので(心理学ではこのことを合理化といっています。)、隠やかで清らかな心を得ることが出来ないのです。
是の故に愛欲の漂はす所と為り、
このようにしで、自分が清らかでないのは周りのせいだ、元気がないのは環境が悪いのだ、などと自分が良くない状態にあるのを周囲のせいにして、自分は正しいのだ、と愛欲から生じる不満や怒りや主張などを表面に漂わせて、この状態で瞑想から出てきてしまいます。
法力を得ず、心寂静ならず、其の心と一にせず、
この様になるので、瞑想によって出てくる心の力「法力」を得ることもなく、心が寂静になることもなく、三昧(心の中が穏やかで浄らかな状態で満たされて静止している状態)を得ることもありません。
彼の浄相に於て、 随て愛欲を生じ、流注し凌輸して、遠離に違う。
このように浄らかである・幸せであると、浄相をとっていると、愛欲の心が表面に出てきて、水で押し流されるように瞬く間に良くない心の状態にもって行かれ、良くない心をなくして苦しみから遠離したいとする、本来の目的とは違ったことになってしまいます。
當に知るべし、是の比丘は敢て自ら五欲の功徳に於て離欲し解脱せりと記せずと。
このことから起きる結果をしっかりと知っていなければなりません。
この修行者は懸命に修行していても、自ら五欲の功徳に於て離欲し解脱した、と記憶されることがないのです。
「五欲の功徳」
眼耳鼻舌身の五つの感覚器官から脳に入力される情報のうち、過去の記憶に照らし合わせて、好ましく、自分にとって(動物として生存のために)有利で得になるもの。
聖弟子はこの情報に執着していると、これが苦しみの原因になることを知っており、これから離れることが解脱への道であることを知っている。
ここまでのテキストには修行者が落し穴に落ちてゆく有様が分かり易く説かれていました。
このようにして瞑想的な修行をしている人が陥りやすい特有の、我が強く、自分の見解が正しいと主張して人の意見を受け入れようとせず、不満の心が強く、人を貢めるくせのある、孤高の人格が形成されてゆきます。
このお釈迦様のご指摘は誠に厳しいものです。
私たちはこのお釈迦様のご指摘にあったとたん、心が閉じてこの勧告から逃げ出してしまいたくなるのです。私たちはこの落とし穴に落ちたままであってはなりません。
瞑想の成功のために
それでは瞑想の修行者はどのように取り組んでいれば、この落とし穴に落ちることなく心を変える作業を成就することができるのでしょうか。
若し比丘、是の思惟をなさん「我れ内に心の中に欲を離ると為すや否や」と。
是の比丘は當に境界に於て或は浄相と取るべし。
若し其の心を覚らば彼に於て、順趣し浚注せん.。
「私は、心の奥底にある動物としての欲、すなわち我が利を欲して動く自己中心の欲の心を離れることが出来ているだろうか、出来ていないだろうか。」
もし、終行者がこの様に心を向け思惟しているのであれば、
これが出来ている修行者はその時点の心(たとえ、まだ清らかであるとは言えなくても)の境界に合わせて、ときには浄相、すなわち「私は清らかになる・私は元気になる・私は幸せになる」などプラスのイメージを取るようにするべきです。
もしこの心の使い方が分ったなら、浄相を取ることによって心を変える作業に正しく向い順い趣き、目標とする心の状態に向けて、流れに注ぎ込まれたように速やかに進むことでしょう。
譬へば鳥翩火に入らば則ち巻いて舒展す可からざるが如く、
是の如く比丘、 浄相を取るも即ち遠離に須ひて流注し浚輸せん。
たとえば、大きな羽を持った鳥が火の中に入ってしまったら、できるだけ羽を小さくたたんで、羽を伸ばして燃えてしまうことがないようにするように、
このように、修行者は浄相を取っている時にもし愛欲の心が涌いてきたら、愛欲とその原因になっているものを見つめて、この愛欲の心を小さくするように心を向けていれば、愛欲と愛欲から生じる苦しみから離れる方向に進んで、水の流れのように速やかに心解脱の目的地に運ばれることになるでしょう。
比丘、當に是の如く知るべければなり。
「方便行に於て心懈怠ならず法寂静を得、寂に止り楽を息め淳浄一心ならん」と。
修行者は、まさにこのように知らなければなりません。
悪い心癖をなくする方便行、すなわち様々な工夫をする修行に於いて解怠の心を起こすことなく励んで、有漏を滅し心の寂静を得れば、心を寂に静止させ苦楽の心を息めて、穏やかで清らかな三味に入ってゆくことになるのです、と。
「寂に止り楽を息め淳浄一心なる」
三十七苦提分法の「定根」すなわち初禅から第四禅までの心に到達すること。
謂ゆる我を思惟し已りて、
いわゆる「我れ」、すなわち我が利に執着する心(いわゆる身見)について思惟し、身につけ終わって、
この一行はとても大切なポイントが説かれています。浄相に於て遠離に順うためには、お釈迦様の説かれる「我に執着する心」がどうして存在しどのような働きを為してゆくかについてよく理解し「我中心」の姿が正しく捉えられていなくてはならないのです。
浄相に於て遠離に順い、修道に随順せば
則ち能く自ら五欲の功徳に於て離欲し解脱せり記するに堪忍せん。
雑阿含経 乗船逆流経より
浄相をとっていても愛欲から離れる方向に進み、修行の道に順って戻ることなく励めば、すなわちよく、ひとりでに五欲の功徳に於て離欲し解脱したと記憶されることに堪え認められることになるでしょう。
乗船逆流経の極意
この経典に説かれた心を変える作業のまとめ
①「我れ、内に心の中に欲を離ると為すや否や」と思惟する。
② 浄相を取る。
③ 方便行に於て心解怠ならず励んで心の寂静を得る。
④ 寂に止り楽を息め淳浄一心になる。
ここでは方便行を心解怠ならず励め、とのこの一句をしっかりと実践すべきです。
このために何に向けて方便するのか、これを正確に掴んでいなければなりません。
この経典に説かれた心を変える作業のまとめ、別の表現では
① 我れを思惟し已り、
② 浄相に於て遠離に順ひ、
③ 修道に随順する。
④ 自ら五欲の功徳に於て離欲し解脱する。
となります。
私(著者)はこの中で四番目の項目の「自ら」の一句に着目しています。
自然の神力によってひとりでに向うというのです。
目標を明快にして努力を積み重ねていればひとりでに到達する。お釈迦様の修行法の神髄がここにあると思うからです。
修行の落とし穴としてとらえた「乗船逆流経」にも、このように心躍る「心を変える作業」が説かれていました。
ここにまとめた二種類の表現は同じストーリーを別の表現でまとめているともいえます。
①「我れ、内に心の中に欲を離ると為すや否や」思惟する。
は別の角度から見ると
②「我れを思惟し巳り」
と表現することが出来ます。
瞑想をするときの最大の注意点であり、やや難解なこの項目を理解するのに、この二つの表現があるのは大いに役に立つのです。
これがお釈迦様の説かれた「阿含経」に取り組み理解してゆく最大の魅力であると思います。